織田信長が南蛮貿易に力を入れた理由は自らの天下統一のためだった!?
今の世の中、輸入品がなければ私たちの生活は成り立ちません。もちろん、今では日本から輸出される「メイド・イン・ジャパン」の品々が海外でもてはやされ、注目を集めていますよね。
しかし、戦国時代はまだまだ外国との接点がありませんでした。種子島にポルトガル人が漂着して初めて、日本人はヨーロッパ人を知ったくらいです。彼らが持っていた当時最先端の技術は、驚嘆するべきものでした。
当然、権力者たちはそれを手に入れたくなります。そこで南蛮貿易が始まったのでした。
外国の文化に対して、最初に積極的な興味と理解を示したのが織田信長です。
彼はいったいどうして南蛮貿易に力を入れたのでしょうか?
信長が南蛮貿易を重視した理由
もちろん、信長の独特な感性が南蛮文化に惹かれたということもあるでしょう。
しかし、天下統一を狙っていた彼には、もっと政治的な考えもありました。
まず、南蛮との貿易によって利益を上げることです。新しい物の流入は市場に新しい刺激をもたらし、経済が活性化されることは目に見えていました。
信長は楽市・楽座政策や関所の廃止など、国内の経済政策にも力を入れていましたから、このことを重視したのだと考えられます。
また、鉄砲や西洋式の鎧などを取り入れることで軍備を増強し、自身の天下統一にさらに近づくことが目的でした。
そして、二点目が一向一揆などの当時の仏教勢力との対抗です。キリスト教に寛容な姿勢を取ることで、政治に口を出してきた仏教勢力を抑えようという意図がありました。
どんな物を輸出・輸入したのか
輸入品としては、まずは鉄砲です。そして、その火薬に必要な硝石も合わせて輸入しました。
他には生糸、絹織物です。また、信長の配下にいた黒人奴隷も、信長が輸入したのかどうかは不明ですが、当時の南蛮貿易では輸入品の一品目でした。
日本からの輸出の筆頭は銀です。当時、石見銀山が隆盛を極めており、日本の一番の産出品でした。他には、硫黄や陶磁器、漆器などが輸出されていきました。
当時の貿易拠点
信長が押さえた場所は、大阪府の堺です。1568年(永禄11年)、足利義昭を奉じて京都に上洛した際、信長は義昭に申し出て堺を手に入れました。
元々、堺は日本の海上交通における要衝で、遣明船もここから出ていました。
戦国時代においては、日本最大級の物流の拠点である港だったのです。
まとめ
ただ単に文化に対する物珍しさから南蛮貿易を行っていたのかと思っていましたが、やはりそこは天下統一を狙う広い視野と深い見識を持っていた信長、ちゃんと政治的な目論見があって、南蛮貿易を行っていたのですね。
もし、本能寺の変が起きていなかったなら、南蛮文化はどのように日本に浸透していったのかなと色々な想像をしてしまいます。