織田信長が「うつけ者」と呼ばれていた理由 実はこんな事からだった!
数多の戦国大名の中でも、際立った個性と強さが魅力の織田信長。
彼にもれなくついてくる異名が「うつけ」。彼を知るまで、この言葉を聞いたことがなかった方も多いのではないでしょうか。
では、いったい「うつけ」とは何か、どうして信長がそう呼ばれたのか、見ていきたいと思います。
信長が「うつけ」と言われていた理由
「うつけ」は、空っぽである、愚かである、ぼんやりしているという意味で、常識外れだという意味もあります。
信長がうつけと呼ばれていた理由としては、少年~青年期における奇行のせいであると伝えられています。信長の旧臣である太田牛一(おおたぎゅういち)が書き残した「信長公記(しんちょうこうき)」に、その描写が見られます。
それによると、本来は入浴時などに着る湯帷子(ゆかたびら)を普段着にして、袖は脱ぎっぱなしだったということでした。まげは、毛先をツンツンにして、まるで茶道で使う茶筅(ちゃせん)のような結い方で、しかも紅や萌黄の派手な糸で巻き上げていたというのです。
街中では、お供にだらしなく寄りかかりながら歩き、平気で柿や瓜をかじっていました。これを見た人々は、信長を「尾張の大うつけ」と呼びました。
また、有名なエピソードですが、父・信秀の葬儀に際しては、いつもの奇妙な格好で現れ、焼香を位牌に投げつけて帰ったのです。
うつけ者は他にもいた!?
信長のように「うつけ者」とまで呼ばれた武将はいないとされていますが、それに準ずるような行動を取った武将たちは、何人かいます。
長宗我部元親
土佐国の長宗我部元親は、幼いころはとても大人しくぼんやりとしていて、皆から「姫若子(ひめわこ)」と呼ばれていました。軟弱だとか、それこそうつけのような意味合いです。
この場合のうつけは、おそらく愚かであるとかぼんやりしているという意味が主だったのでしょう。しかし、彼は成人して後に四国を制圧し一大勢力を築きます。
前田利常
また、前田利家の息子で加賀藩第2代藩主の前田利常にも、一風変わった人物であったというエピソードが伝わっています。
例えば、鼻毛を伸ばしっぱなしにしており、愚かっぷりをきわめたといいます。これは、外様筆頭の石高を持つ、前田家が幕府から警戒されないよう幕府の目を欺くためにやっていたと言われています。
これらは、江戸時代以降に書かれた井原西鶴による「日本永代蔵」や、幕末に書かれた「名将言行録」(著・岡谷繁実)の中に見られるもので、実際がどうであったかのか確たるものはないのですが、こういうことが後世に伝わってくるのですから、それなりに風変りな殿様だったのでしょうね。
最後に
信長の場合、ただ単にだらしなくしていたわけではないことは、その後の彼の躍進を見れば一目瞭然です。周りの目を欺くためにうつけを演じることは、想像以上に大変だったのかもしれません。
しかし一方で、南蛮からの文化の輸入など、新し物好きの面を見ると、もしかしたら、あの出で立ちは、信長なりの最先端モードファッションだったのではないかとも勘繰ったりしてしまいます。
いずれにせよ、彼の真意はその口から語られることはありませんでした。それを想像する楽しみを、彼は後の世の私たちに残してくれたのかなとも思います。