細川ガラシャは戦国時代を代表する絶世の美女!? 戦国時代の美女一覧
細川ガラシャは明智光秀と二番目の妻:煕子の三女で細川忠興の正室です。
ガラシャはキリスト教徒として洗礼を受けた際に付けられた名前で、それまでは「たま」(珠、玉とも)もしくは玉子(たまこ)と呼ばれていました。
キリシタンとして有名で、明治に入ってから、キリスト教徒が彼女の生き様を讃えて洗礼名のガラシャで呼ぶようになり、現在でも広くこのように呼ばれています。
彼女は絶世の美女だったとも言われ、その儚く悲しい生涯は多くの人を惹きつけます。
夫 細川忠興の病的な嫉妬
細川ガラシャは天正6年(1578年)15歳の時に織田信長のすすめで細川藤孝の嫡男である忠興と結婚しました。
当代第一の美男美女夫婦と言われ、ガラシャだけでなく、夫の忠興も美男子だったようです。
忠興からのガラシャへの愛情は深く、ガラシャの父、明智光秀が本能寺の変を起こしたときも離縁はせずに、幽閉しただけに留めています。
厄介者の彼女を遠ざけたという説もありますが、父の罪がガラシャに及ぶのを防いだのです。
ただし、彼の愛情は執着めいた所もあり、ガラシャの美しさに見とれた植木職人をただそれだけの理由で手討ちにしたという話もあります。忠興はとにかく彼女を他の男に見せるのも嫌がり、大坂の屋敷内に豪華な奥御殿を築いて彼女がそこから出る事を禁じました。
その近辺は厳しく監視され、ガラシャのいる奥の御殿には雄猫一匹であっても近づけさせないような徹底ぶりだったそうです。秀吉の命令での朝鮮出兵中にも忠興は何通もの手紙をガラシャに送っていますが、その内容は「秀吉の誘惑に乗らないように」というものだったと言います。
彼の嫉妬はとどまることを知らず、上杉討伐の際にはもし彼女の貞操を脅かすような事があれば彼女を殺して家臣達も切腹するようにと命じます。自分以外の目に触れるだけでも嫌なのですから、ガラシャが他の男の手に落ちるくらいならその前に死んで貰わなければならない、なんとも物騒な話です。
不安は的中し、忠興の留守をついた石田三成が大阪の屋敷を包囲してガラシャを人質にとろうとしますが、彼女は侍女達を逃がした後、キリスト教徒で自害は出来ない為、家臣に介錯をさせて亡くなります。
忠興の命令では侍女も家臣も死ぬようにというめちゃくちゃな物でしたが、ガラシャは自分だけが死ねば良いと潔く死を選んだのです。忠興の嫉妬は美しい奥さんを持ったが故かもしれませんが、病的な気もしますね。
戦国時代の美女と言われる女性
当代第一と言われた美女の細川ガラシャ。では、戦国時代の美女には他にどんな人がいたのでしょう。
諏訪御寮人
武田信玄の側室で、武田勝頼を生む。甲斐では御寮人という言葉は美しい姫君を指すので、彼女は諏訪の美人の姫君と言った所でしょう。
小松殿
真田信之の妻。気性の激しさでも知られるが、信之との結婚では美男美女の夫婦ともてはやされた。
京極竜子
秀吉の側室松の丸殿。美男子と言われた浅井長政の姪で、美人ばかりを集めた秀吉の側室の中でも、ものすごい美人と評判でした。
お市の方
戦国時代のヒロインといえばこの人。魔王織田信長の妹で浅井長政の妻。戦国一の美女と言われていて、柴田勝家や豊臣秀吉の生涯の憧れの女性でした。
茶々(淀殿)
お市の方の娘で最もお市の方に似ていたそうです。秀吉が側室に迎えたのも彼女にお市の方の面影を求めたからだと言われています。
この他にも沢山の名前が挙げられます。ただ、やはり悲劇のヒロインほど人気なのか、殆どの女性は悲しい最期を迎えています。美人薄命なのか、薄命な事がより美しさを際立てるのか……難しい問題です。
まとめ
戦国時代の美女と言っても現代と美的感覚が違いますから現代でも美人かどうかは人それぞれのような気がします。
しかし、残されている肖像画を見ると、他の美女と呼ばれる女性がのっぺりとしたふくよかな顔立ちであるのと比べて細川ガラシャは鼻筋が通った綺麗な顔立ちだったようです。
もしかしたら、当時ではあまりいない珍しいタイプの美人と言った位置づけだったのかもしれません。細川忠興が病的に愛したのも分からなくはありません。