もし、織田信忠が生きていたら、時代はどう動いたかを考察!
織田信長の長男・織田信忠。本能寺の変の際、二条御所にて明智光秀の軍勢に敗れ自害しました。
偉大なる父の存在が大きすぎて、ちょっと日陰になりがちな彼ですが、もし、彼が生き延びていたら、いったいどうなっていたのでしょう?
織田家のプリンス・信忠
信長の長男として生まれた信忠は、家督を継ぐことを約束されたまさにプリンス的な若様でした。信長は、信忠にだけは雑用など身の回りのことも一切自分でさせず、側仕えの者にさせたといいます。そして、信長に従って各地での戦に臨み、経験と戦功を重ねていきました。
1576年(天正4年)に信長から家督を譲られてからは、美濃東部、尾張の一部をおさめる岐阜城主となります。
その後、雑賀衆(さいかしゅう)との戦いに勝利し、再反逆した松永久秀討伐の際には総大将を務め、勝利をおさめました。1582年(天正10年)の甲州征伐でも、総大将として武田家を完膚なきまでに叩きのめし、滅亡に追い込みます。
このように、信長の後継者として着々と地位を固めてきた信忠ですが、同年6月2日、本能寺の変が起こってしまいます。
そのとき彼は本能寺近くの妙覚寺に滞在していて、父の救援に向かいますが、途中でその死を知ります。それから、彼は少ない手勢と共に明智軍と戦いますが、力及ばす、二条御所で自害しました。享年26歳でした。
それにしても、このとき京都から脱出していれば、どうにかなったのではないかと思いますよね。けれど、それをしなかったのはなぜなのでしょう。いったい信忠は、どんな人となりだったのでしょう。それを探ってみたいと思います。
信忠ってどんな人?
父・信長は激しくも魅力的な性格だと多く伝わっていますが、信忠に関しては、父ほどの強烈なエピソードは伝わっていません。
ただ、寛永年間(1624年~1644年)に編纂された史書「当代記」に伝わるものとして、本能寺の変の際、逃げて再起を図るようにすすめた側近に対して、信忠は「逃げ出して途中で討ち取られることこそ無様であるから、ここから逃げてはいけない」と答えたという話があります。
「当代記」自体は編者不詳で、信憑性に欠けるとも評されていますが、ここからは、信忠が真面目すぎるほど真面目だということが伝わってきます。
一方、信忠凡人説も唱えられていました。歴史家・高柳光寿は著書「青史端紅」で、徳川家康の息子・信康の方が信忠より優秀だと認めていた信長が、信忠の将来の障害をなくそうと、信康を切腹に追い込んだのだと述べています。この説が広く支持されたため、信忠は凡人であるという認識が広まりました。
しかし、実際に信忠は軍功があり、政務もそつなくこなし、織田家の当主として至らない点は見当たりません。そのため、現在では彼の器量に関しては再評価の波がやってきているのです。
また、会うことのなかった婚約者・松姫との絆も、信忠を語る上では欠かせません。松姫とは武田信玄の六女で、幼少時に政略結婚目的で二人は婚約しました。
ですが、婚礼を挙げることはなく、文のやりとりだけが二人をつないでいました。武田家滅亡後は、松姫は八王子に逃れていましたが、信忠は彼女を呼び寄せようとします。
ところが、本能寺の変が起こり、信忠は自刃。ついに2人は会うことなく、生涯を終えました。信忠は終生正室を置かなかったといいますし、本当に誠実な人柄だったのではないでしょうか。
信忠が生きていたらどうなっただろう?
こうして見てくると、信忠はとても真面目で、きっちりと仕事をこなす人だったようです。信長が築いてきたものを守り育てていく後継者としては、不足はなかったのではないかと思います。
それに、もし信忠が生きていたら、羽柴秀吉は織田家のいち重臣のまま、天下を取る事はなく、その後続く関ヶ原の戦いや徳川幕府の成立すら怪しかったのではと思われます。清洲会議では織田信忠の嫡子三法師が後継者となったことからも、信忠が生きていれば、正当な信長の跡取りとして君臨していたことは想像しやすいのではないでしょうか。
確かに今を生きる我々からすると、強烈なインパクトがない人物ですが、もし彼が生きていたら、歴史は変わったのかもしれません。
それを考えると、信忠はものすごく日本史において、重要な人物だったのかも…?