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前田慶次は実は高身長じゃない! 花の慶次は脚色!?

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慶次の名を世に知らしめた漫画『花の慶次』において、慶次は身の丈六尺五寸(約197㎝)以上とされています。

戦国時代の男性の平均身長が157~158㎝とされていますから、大変な大男だったことになりますが、果たして実際はどうだったのでしょうか。

実際の身長は?

残念ながら身長に関する記述は存在しておらず、慶次が着用したとされている甲冑も、他の武将のものと特に大きさは変わりありません。

ということは平均身長くらいということになります。

漫画の演出のため、体格に特徴を持たせたというのが実際のところなのでしょう。

慶次の愛馬・松風も随分と大きな馬として描かれていたのも同様の理由と考えられます。

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慶次の武勇伝:石山本願寺で信長の旗を奪い返す

慶次に付き従った野崎知通は慶次を「心たくましく猛将たり」と評しています。

他にも、「古今不双の槍の名人」や「武道の達人」、「文武両道の士」と記されており、槍を得意とする武将であったことがわかります。

信長と石山本願寺との戦いを題材とした『石山軍記』には、慶次が奪われた信長の旗を奪い返した逸話が描かれています。

奇襲で信長の旗を奪った石山本願寺勢は「信長は降伏した」と叫びながら、石山へ帰っていました。そこに、脇道から甲冑も着ていない男が現れ、兵をなぎ倒して旗を奪っていってしまいます。

追いかけようとする兵を大将・粟津右近は「甲冑を着た軍勢に、平服で一人駆け入り、旗を奪うなどよもや人間ではあるまい」としてこれを制しました。

これが慶次だったのです。

慶次はその後、信長を探していた佐久間信盛に出会い、旗を渡します。

佐久間になぜ信長の旗を奪ってきたのかと問われた慶次は「信長が降伏したなどというのが見るに堪えず、奪い返し、織田方へ返そうと思ったまでだ」と答え、姿を消してしまいました。

慶次の武勇伝:長谷堂城の戦いで殿をつとめる

他にも、上杉家の正史『御年譜』に長谷堂城の戦いでの活躍が記されています。

この戦いで慶次は水原親憲と共に殿をつとめています。

執拗に食らいつく最上勢にてこずり、直江兼続がなかなか退却できずにいたところに慶次が駆けつけます。そこで慶次は殿を自ら名乗り出たのです。

慶次は自ら大身の槍をとり、水野藤兵衛・韮塚理右衛門・宇佐美弥五右衛門・藤田森右衛門の四人と共に、敵陣を縦横無尽に駆け巡り、打撃を与えました。

こうした慶次の活躍があり、兼続はなんとか米沢へ帰りつくことができました。

「カブキ者」のイメージが慶次をさらなる猛将へと成長させた!?

『石山軍記』は江戸時代の歴史小説で、フィクションの部分が多いようなので、史実ではないのかもしれませんが、江戸時代にはこうした慶次の大胆不敵な「カブキ者」としてのイメージが出来上がっていたようです。

戦国武将たちのこうしたエピソードのほとんどが戦国時代に入って語られたもののようで、真田幸村のエピソードなんかもそうしたものの一つです。

それほど歴史の表舞台に出てこなかった慶次が、他の武将たちと肩を並べるほどの猛将として愛されたのは、「カブキ者」としてのイメージが人々の想像を掻き立てたからかもしれませんね。

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