北里柴三郎がノーベル賞をとれなかった理由 彼の業績では無理なの?
日本の医学者・細菌学者であり「日本の細菌学の父」として知られる北里柴三郎。
数々の業績を残した彼ですが、ノーベル賞候補となったものの結局は受賞できずに終わりました。
彼の業績と、ノーベル賞を受賞できなかった理由は何だったのでしょうか。
北里柴三郎の研究活動
北里柴三郎は1886年、ドイツのベルリン大学のコッホ研究所に入り研究を開始します。
1889年、ベーリングと共に世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功、翌1890年には世界で初めて血清療法(病気の抗体を含む血清を病気の治療や予防に用いる方法)を発見します。そしてジフテリア毒素と破傷風毒素に対する抗血清を開発します。
1894年にはジフテリア抗血清の製造と、これによる治療を開始します。またこの年には感染症である腺ペストの病原菌を共同発見しました。
北里は破傷風やペストなど死亡率が高く、流行によって多くの人が命を落とした破傷風やペストの予防に大きく貢献しました。免疫医療の先駆者として高い評価を得ました。
また、ペストはネズミが媒介することがわかったため、「一家に一匹猫を飼えばいい」という提唱するなど、ユニークな発想の持ち主でもありました。北里によって日本にも衛生観念が根付きました。
さらに北里は狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組みました。彼が予防接種の科学的根拠を示したことで多くの伝染病の予防接種が行われるようになり、人々はそれまで多くの命を奪ってきた病気に対抗できる術を手に入れました。
このような北里が先駆けとなった免疫医療は今なお現代医療に大きな貢献を果たしていることは言わずもがなだと思います。
ノーベル賞を受賞できなかったワケ
1890年、北里はジフテリアの血清療法に、同僚であったベーリングとともに取り組み、連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表しています。
これによって北里の名は第一回ノーベル生理学・医学賞にノミネートされましたが、結局受賞することはありませんでした。そして抗毒素の主導者である北里ではなく、共同研究者であったベーリングのみがノーベル賞をとりました。
その理由としてはこの様な事が言われています。
- ベーリングが単独名でジフテリアの他の論文を発表していた
- ノーベル賞委員会や選考したカロリンスカ研究所が免疫血清療法のアイディアはベーリングが単独で考え出したとみなした
- 当時はまだ共同受賞という考え方がなかったこと
- 北里に対する人種差別(当時日本人は「この前まで鎖国していた国のやつに何ができる」と思われていました)
この中でも特に4の可能性を推す声は大きく、もし現在の考え方が当時にもあったならば確実に北里もノーベル賞を受賞しているだろうと言われています。
研究所などの設立、後身の育成
彼は伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)、土筆ヶ岡養成園(現在の北里大学北里研究所病院)、私立北里研究所(現在の学校法人北里研究所)および北里大学、慶応義塾大学医学科(現在の慶応義塾大学医学部)、日本医師会の創立者であります。
ここから高名な医学者である野口英世や志賀潔らを輩出しました。北里はこれらの弟子たちに「ドンネル先生(ドイツ語で雷親父)」と呼ばれ、畏敬の念を持ちながらも親しまれてきたと言います。
このような研究所の設立、弟子の育成なども北里の大きな業績であると言えるでしょう。