毛利輝元の性格は優柔不断?
毛利輝元(天文22年(1553)~寛永2年(1625))は、一代にして中国地方に大勢力を築き上げた毛利元就の孫にあたる人物です。大変に優柔不断な性格だったといわれる輝元が、家臣たちに相談することもなく、驚くべき大決断を行ったことがありました。それが関ヶ原の戦いにおける西軍総大将への就任です。しかしながら、輝元は結局大阪城を一歩も出ることなく西軍大敗の報を受けることになります。
なぜ輝元は西軍総大将という立場にありながら出陣しなかったのでしょうか。
優柔不断と評される輝元
輝元の父は元就の嫡子である毛利隆元の嫡男として生まれました。ところが永禄6年(1563)に父・隆元が急死したため、わずか11歳にして毛利家の家督を継ぐことになりました。しかし実権は祖父・元就が握っていたといわれています。
教育係であった叔父の小早川隆景には、家臣の目がないところでは折檻を受けるなど厳しいしつけを受けていたという話もあります。隆景は吉川元春とともに「毛利の両川」と呼ばれ、毛利家の発展に尽くした人物です。2014年本屋大賞に輝いた和田竜の『村上水軍の娘』でも強い発言力をもって毛利家の政策決定に関わっています。
戦国の世にあって名将として知られる元就・隆景・元春という三人の前では、輝元の存在感は薄く、その発言力も弱くなってしまったのではないでしょうか。決断力がない、というよりは実質的な決断権がなかったとも考えられます。
また、慶長の役で日本軍の捕虜となった姜沆は、『看羊録』の中で輝元について「つつしみ深く、ゆったりと大らかで、わが国(朝鮮)人の性質によく似ている」と記しており、「朝鮮出兵の時、彼だけは朝鮮人の鼻削ぎなどの残虐行為を見て哀れだと思う心を持っていた」と、敵ながら彼の人格を称えています。戦国武将としてはあまりに優しい人柄だったのかもしれません。
西軍総大将に就任
慶長5年(1600)、徳川家康と石田三成との対立がついに武力闘争に発展します。しかし、三成は大谷吉継の進言に従い自らは総大将に就かず、家康に次ぐ勢力を持つ毛利家の輝元を西軍総大将として擁立しようと考えます。安国寺恵瓊の説得を受けた輝元は、総大将就任を一門や重臣に相談することなく受諾してしまいました。
輝元が西軍総大将になったことで、毛利家は大騒ぎになります。特に毛利の分家・吉川家の吉川広家は東軍勝利を予想していたため、裏工作に邁進。決戦の際は毛利軍を戦闘に参加させないことを条件に、東軍が勝利しても毛利家の領土は安泰という約束を家康に取り付けています。
輝元が出陣しなかった理由
西軍総大将という立場ながら実際に関ヶ原での戦いに参戦しなかったのはなぜでしょうか。
三成は理由8月26日、毛利輝元に対し、秀頼を伴って出陣してほしい旨を伝える使者を使わせています。しかし、この使者は大阪城に到着する前に東軍によって捕らえられていしまいます。輝元からの反応がないため、三成は9月10日に再度輝元に使者を送りました。この使者は無事輝元のいる大阪城に到着して出陣の要請を伝えています。しかしながら、輝元が出陣した記録はありません。
この理由は諸説ありますが、その中でも最も知られているのは、増田長盛内通の噂があったため大阪城を出られなかったからというものです。増田長盛というのは豊臣政権における五奉行の一人で、秀吉没後早くから反家康の姿勢を明らかにして石田三成に与していた人物です。大阪城にいた増田長盛が内通しているとすれば、大阪城を空にすることは大変危険だと考えたのかもしれません。実際、7月12日に永井直勝(家康の家臣)宛に増田長盛が送った書状には、三成の動きが書かれており、輝元の大阪到着以前からの内通していたことが疑われます。
二つ目は、先ほども触れた広家の裏工作です。広家は決戦前日、二人の人質とともに毛利の戦闘不参加を誓う書状を黒田長政を通じて家康に送りました。こうした裏工作は広家自身の保身ではなく、毛利家安泰のためを思ってのことです。であれば、広家は輝元に家康内通の儀を伝えていて知っていたとも考えられます。つまり、豊臣と東西両方に義理立てし、両軍の損傷が著しい時は、無傷の自分が出兵することで天下を取ることもできると考えたのではないでしょうか。一見すると「天下を狙うな」という祖父・元就の遺訓に逆らったようにも見えますが、この場合「天下が転がり込んだ」というふうにみれば逆らったことにはならないという見方もできます。
他にも、淀君が秀頼の出陣に猛反対したからという説もあります。淀君の秀頼に対する溺愛ぶりは有名ですが、その時数え年で8歳になったばかり。かわいい我が子をそんな危険な所には行かせられない、ということでしょうか。深刻な人材不足に悩む西軍では淀君が独善的に采配を振るっていたともいわれ、淀君の反対を押し切っての出陣は難しかったのかもしれません。
関ヶ原後の輝元
実際の出陣はなかったものの、出陣しようとしたという事実により、一時は家康に改易されかけます。しかし吉川広家の働きで、かろうじて毛利家は周防・長門の二国(現在の山口県)へ移封という形で改易を免れました。このことに対して「近頃の世は万事逆さまで、主君が家臣に助けられるという無様なことになっている」と自らの非力を嘆いたといわれています。
大阪の役に際しては豊臣家への最後の御奉公として極秘裏に家臣を送り込んだりもしましたが、徳川の世となって後は毛利家の安泰に尽くしました。元和5年(1619)に秀忠上洛の折には、老衰の体で死を覚悟しながら二条城に登城、毛利家安泰を嘆願しています。そして帰国するや跡をついだ秀就にお家の繁栄とお取り潰しについてこんこんと言い聞かせて二十か条におよぶ遺訓を残したといわれています。