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母里太兵衛と名槍「日本号」

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酒は呑め呑め 呑むならば 日本一のこの槍を 呑み取るほどに呑むならば これぞ真の黒田武士

というのは、福岡県の民謡「黒田節」です。この歌に歌われたのが、黒田二十四騎の一人で、黒田八虎にも数えられる母里太兵衛(友信)です。

槍の名手として、生涯に76と黒田家中で一番の首級を挙げた母里太兵衛とはどのような人物だったのでしょうか。

母里を名乗る

太兵衛の父は播磨の国(現在の兵庫県南西部)妻鹿の国人曾我一信(そがかずのぶ)です。よって太兵衛も当初は曾我を名乗っていたものと考えられます。

一信は播磨の御着城の小寺市に仕え、官兵衛の父として知られる姫路城主・黒田職隆の与力的な立場にありました。そうしたことから永禄12年(1569)から官兵衛(孝高、法名・如水)に出仕しています。

そんな太兵衛が「母里」を名乗るきっかけとなったのは、永禄12(1569)に西播磨守護代・赤松政秀と黒田氏との間に起きた青山・土器山の戦いです。この戦いの中で、黒田家家臣の母里小兵衛、武兵衛を含む母里家一族24人が戦死してしまいます。このままでは母里家が断絶してしまうことを惜しんだ官兵衛は、太兵衛の母が母里氏の女であったことから、母里姓を与え名のらせることになりました。

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栗山善助との義兄弟の契り

太兵衛は分別がなくて向こう見ず、わがままな性格だったが、官兵衛は役に立つ男と見込んで「栗山善助を兄とし、栗山善助は母里太兵衛を助け、母里太兵衛は栗山善助の言いつけに背かないように」、と義兄弟の契りを結ばせました。

栗山善助(利安)は官兵衛股肱の家臣の一人で、官兵衛から厚い信頼を寄せられていた人物です。そもそも、善助というこの名前は、善助が正直者で健気な性格だったことから官兵衛が命名したもので、太兵衛の世話役として適任だったと考えられます。

これ以後、二人は黒田軍の先手の両翼の大将を担い、黒田家の繁栄を支えました。官兵衛は死の間際に二人を呼び義兄弟の誓紙を見せ「本来なら返すべきだと思うが、最後まで約束を守ってくれた頼もしい誓紙なので冥土まで持って行こうと思う。自分が死んだら、お守りとして棺の中に入れてくれ」と懐にいれたといいます。

また、太兵衛も死の間際、善助に「これまではおこがましい思い口にはせたが、あなたの恩で人となることができました」と述べ、共に手をとり号泣した話も残されています。

太兵衛にとって、黒田家にとってこの義兄弟の契りが重要な意味をもっていたことがわかります。

名槍「日本号」

太兵衛の名前が広く知られている理由の一つに名槍「日本号」があります。

穂(刃長)二尺六寸一分五厘(79.2cm)、茎一尺六分五厘(62.5cm)、重さは912.7g、樋(刃中央の溝)に優美な倶梨伽羅龍の浮彫があります。拵えを含めた全長十尺六分余(321.5cm)、総重量2.8kgもある長身の槍です。

天下三名槍にも数えられるこの槍は、正親町天皇より室町幕府15代将軍・足利義昭に下賜され、その後、織田信長、豊臣秀吉に渡り、秀吉から福島正則に与えられました。

文禄・慶長の役(朝鮮出兵)休戦中の際、太兵衛は京都伏見に滞留中の福島を長政の使者として使わされます。酒豪として知られる正則は、同じく酒豪として知られていた太兵衛に酒を勧めますが、長政より「先方で酒が出ても飲んではならない」と言われていましたので、太兵衛はこれを固辞しました。しかし正則は三升は入ろうかという大杯に並々と酒を注ぎ、「これを飲み干せば、なんでも好きなものを褒美にとらせよう」と更に勧めてきます。太兵衛がこれを断ると、今度は「何だ、酒豪といわれる母里でさえ、このくらいの酒を呑む自信が無いとは黒田家の侍も大したことはない」と挑発してきたので、太兵衛は黒田家の名にかけて、と勧められた杯を一気に飲み干してしまいました。

そしてその褒美として正則から受け取ったのがこの名槍「日本号」というわけです。正則にとっても家宝ともいえる槍でしたが、「武士に二言なし」と言って譲り渡したと伝えられています。

この逸話が「黒田節」として福岡の民謡となり、レコードとして販売もされました。

太兵衛の活躍とその後

太兵衛は天正元年(1573)の印南野合戦に初陣して以来、義兄・栗山善助とともに常に黒田軍の先頭に立ち武功を挙げました。

天正6年(1578)に荒木村重によって主君・官兵衛が捕らえら有岡城に幽閉された際には、留守中連著起請文にも名を連ね、黒田家家臣団の一致団結に務めました。

中国攻め、四国攻めや九州征伐において一番乗りを果たすなど、数々の戦功を挙げたことから、豊臣秀吉が「母里太兵衛を家臣にしたい」と頼んだという話も残っています。官兵衛の豊前入国後は6000石が与えられ、このころ、正室として豊後のキリシタン大名・大友宗麟(義鎮)の娘を迎えたようです。

文禄・慶長の役(朝鮮出兵)にも従軍し、関ヶ原の戦いでは、豊後国で蜂起した義兄・大友義統を降伏させるなど、類稀なる働きを見せました。

こうした功績が認められ、長政が豊前中津18万石から筑前名島52万石に加増移封となった際には、筑前鷹取城1万8000石を与えられ、晩年は但馬守を名乗りました。

元和元年(1615)、死去。法名は麟翁紹仁。墓所は福岡県嘉麻市大隈の麟翁寺です。

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