新撰組の象徴といっても過言ではない、袖口と裾に山形の模様を白く染め抜いた水色の羽織。
とても特徴的で個性的ですが、モデルとなったものがあるようです。
それは一体何だったのでしょうか。
武士のあこがれ「忠臣蔵」
袖口と裾の山形の模様は「ダンダラ模様」呼ばれます。この模様は「忠臣蔵」として知られる赤穂浪士による吉良邸討ち入りの際に着ていたとされているものにも見られます。
赤穂浪士による討ち入り事件が起こったのは元禄時代、1701年のことです。その翌年にはこの事件をモデルにした歌舞伎が上演されています。以降、浄瑠璃や歌舞伎の人気題材となっていきました。
特に竹田出雲の『仮名手本忠臣蔵』は大変な人気ぶりで、客が入らないような時もこれを上演すれば当たるといわれるほどだったそうです。
局長・近藤勇も副長・土方歳三も農家の出身で、武士に強いあこがれを抱いており、「忠臣」の鑑として知られる赤穂浪士のようになりたいという思いがこの「ダンダラ模様」に表れているのではないでしょうか。
死をも恐れない覚悟
また、羽織の水色は正確には「浅葱色」とよばれるもので、これは武士が切腹のときに着る裃の色と同じです。
つまり、この色は死をも恐れず、最後は武士としていつでも切腹して果てる覚悟があることを示しているのではないかと考えられます。
ただ、色については水色である「浅葱色」ではなく薄い黄色「浅黄色」だったのではないかという考察があり大変興味深いです。
これは新撰組の羽織が「浅葱色」だったとする根拠となる記載のほとんどが、正確には「浅黄色」と記されていることが理由です。「浅黄色」は薄い藍色を表す一方、薄い黄色も表します。
他にも、新撰組を示していると考えられる記載に「蝋色割羽織袖印白にて△△如く此したる者三四十人」というものがあり、ハゼを原料として作られた幕末期の蝋燭の色は薄い黄色だったこともその理由の一つとして挙げられています。
「浅葱色」ではなく「浅黄色」だったとする説が正しいとすれば、随分と印象が変わってしまいますね。
早めに廃止されたダンダラ羽織
しかしながら、この「ダンダラ羽織」は最初1年ほど使われた後にすぐ廃止されたようです。最後は新撰組最大の手柄である1864年の池田屋事件のときだったと言われています。
なぜ廃止されてしまったのかということについてははっきりしていませんが、一説には「ダンダラ羽織」が最初の局長・芹沢鴨が考案したものだったからともいわれています。
確かに芹沢が暗殺されたのは1863年のことですので、時期的には合っているとみることもできそうです。
その後は黒づくめの格好であったとされていますが、『伏見鳥羽戦争図』に「ダンダラ羽織」を着た新撰組の姿が描かれていることからそのまま使用されていたのではないかともいわれています。