稀代のプレイボーイ 在原業平の死因は溺死だった!?
平安時代の貴公子、六歌仙の一人の在原業平は「むかし、男ありける」からはじまる伊勢物語の作者として有名です。
また、多くの女性と数々浮名を流したプレイボーイとしても、その名を歴史に刻んでいます。
関係した女性は3,733人にのぼると言われ、その数の真偽はさておいても、情熱的かつ繊細な恋の和歌を数多く残しています。
そんな在原業平ですが、どんな最期を迎えたのでしょうか。その晩年に迫ります。
死因は溺死?
業平の死因は溺死であったという説があります。
その根拠とはどのようなものでしょうか。
寛文二年(1662年)に浅井了意によって著された地誌、『江戸名所記』というものがあります。今でいう「じゃらん」や「るるぶ」などにあたるものでしょうか。これは京都で発売され、江戸の名所や楽しみ方を紹介した観光用の地誌として人気を博し、今でも江戸の風俗や名所を考察する重要な史料として大切にされています。
その『江戸名所記』の中に、「業平」という地を説明する項目があります。地名の由来となった業平天神社(現存せず)の起源を、こう記しています。
”業平すでに都にのぼらんとし舟に乗ず。しかるに乗ずるところの舟、このあたりの浦にて覆り溺死す すなはち里民、塚に築きこまたりしゆえに、塚のかたち舟のごとくなり
要約してみると、業平が都に帰ろうと乗った船が転覆し、業平は溺死してしまった。それを慰めるために里の人たちは塚を築いたということです。その業平塚が縁起となって業平天神社(ひいては地名も)ができたのだと、江戸名所記はいいます。
「在原業平の溺死」の由来は、江戸時代に書かれた一冊の情報誌からなるのですね。
ついに行く道
在原業平が残した辞世の句とされる歌が、古今和歌集にみえます。
ついに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを
(死出への道があるとは、聞き知っていたけれど、それが昨日今日というすぐ間近にあるものだとは、思ってもみなかった)
もし、これが業平の作であるならば、溺死説は疑問視されなくてはいけませんね。
船が転覆してしまってからでは、ゆっくりと歌を詠んでいる暇なんてなかったことでしょうから。
この辞世の句から伝わるのは、何らかの急病かかってしまったのでしょうか、「これは命に係わる病だ、ああ、もう駄目なのか」と、じわじわと死期を悟っていってしまう、業平の驚きや絶望、諦めという情景です。
在原業平 元慶4年(880年)5月28日 没とは、歴史書「日本三代実録」によるもの。
晩年の業平が過ごしたとされる京都の『十輪寺』では、在原業平の命日のこの日、法要「業平忌」が営まれます。
「伊勢物語」が後世に与えた影響は
伊勢物語は、最近の研究で業平の死後も、第三者の手で加筆、編集されつづけ、現在私たちの知る形になったのだという説もあります。そもそもの作者が在原業平ではなく、ほかの誰かであると現段階でも研究の最中であるそうです。
それでもやはり、伊勢物語の主人公は在原業平その人であり、のちの世の日本の文化芸術界に多大な影響を与えた事実は、すこしも霞むものではありません。
伊勢物語にみえる「いろごのみ」という概念は、その後に生まれた源氏物語のような物語文学や和歌、能、人形浄瑠璃や歌舞伎などの芸能の世界にも大いに繁栄されました。
優美、風流、雅といった日本独自の美の追求の仕方が、この伊勢物語をきっかけに体系化されたといっても、決して言い過ぎではないでしょう。
六歌仙や古今和歌集の選者の一人、『紀貫之』は、在原業平を評した言葉を残しています。
その心余りて、言葉足らず。萎れる花の、色無くて匂い残れるがごとし。 (有り余る情感の割に、言葉が足りない。まるで花が萎れてるのに香りだけ残っている、そんな感じだ)
言葉にはしきれない溢れる気持ち。
そんな切ない疼きににも似た感情を、たった三十一文字に織り込み伝えようとした在原業平の作風は、目まぐるしい生活を送る現代の私たちにも、「日本の雅」を思い出させてくれます。