織田信長が岐阜に城を建てた理由

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岐阜は古くは稲葉山と呼ばれ、美濃国守護代斎藤氏の拠点として稲葉山城が築かれていました。

戦国時代になると斎藤氏の家臣の長井新左衛門が謀反を起こし、稲葉山城を乗っ取ります。 新左衛門没後はその子の長井新九郎が後を継ぎ、守護代の斎藤家の家督を得て斎藤利政を名乗ります。後の斎藤道三です。

道三は稲葉山山頂に堅固な城を構築するとともに守護の土岐芸頼を追放し、名実共に美濃の支配者となりますが、嫡子の斎藤義龍との骨肉の争いに敗れ討ち死に、美濃を得た義龍もほどなく急死し、美濃国と稲葉山城は若年の斎藤龍興に委ねられることとなります。

道三の娘婿であった織田信長は、これを好機と見て稲葉山を攻めますが、要害の地に道三が縄張りした堅固な稲葉山城を落とせず、斎藤氏の家臣であった竹中半兵衛重治、安藤守就らを調略してようやく内部から城を攻め落とすことに成功します。

稲葉山の戦略拠点としての利点を知った信長は、本拠を尾張の小牧山から美濃の稲葉山に移します。

信長は斎藤氏時代の城郭を破却して、新たに城を建てるとともに稲葉山と城下の地を岐阜と改め、ここを天下取りの出発点とすることになるのです。

岐阜の地名の由来

織田信長が稲葉山を岐阜と改めたのは、古代中国の史書「史記」の記述に由来するものでした。

殷(商)王朝の諸侯であった姫昌は、現在の中国陝西省岐山県の地にあたる岐山を本拠として周王朝を立てますが、この時、岐山には鳳凰が舞い降り、周王朝800年の泰平を築くことができたとされます。

この故事を信長に伝えたのが信長の創建になる政秀寺の沢彦宗恩和尚で、岐山の「岐」と孔子生誕の地である曲阜の「阜」を合わせ、泰平と学問が両立するようにという願いを込めたのが岐阜の名の起こりになっています。

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信長以降の岐阜城

岐阜城から天下取りを始めた信長が二条城を経て安土城を居城にするようになると、岐阜城は嫡子・信忠が城主となり、美濃、尾張両国の支配拠点となります。 しかし、本能寺の変で信長、信忠親子が倒れると、斎藤道三の子で信長には義弟にあたる斎藤利堯が岐阜城に寄って防備を固めます。

明智光秀が山崎の合戦で討たれ、織田信孝が美濃国主として入国すると、利堯は美濃国人衆とともにこれを出迎え、信孝に臣従します。

しかし、信孝は羽柴秀吉に担がれた弟の織田信雄との勢力争いに敗れて自害し、美濃国を信長の乳兄弟であった池田恒興が治めるようになると、岐阜城は恒興の嫡男・元助、続いて次男・輝政の居城となります。

池田輝政が東三河に転封になると、秀吉の甥の羽柴秀勝、続いて信長の孫の織田秀信が岐阜城の主となります。

秀信が関ヶ原合戦で石田三成の西軍に加担し、岐阜城に立て籠ったこともあって、徳川家康は岐阜城の廃城を決定、岐阜の名を加納に改めるとともに、娘婿の奥平信昌に10万石を与えて平城の加納城を築かせます。

こうして岐阜城は姿を消しますが、岐阜城の天守、櫓などの一部は、この時加納城に移築されたと言います。

この加納城に移された岐阜城の遺構も明治の廃城令によって破却され、当時の岐阜城を偲ぶものは残っていないのです。

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