千利休が切腹した理由は?
豊臣秀吉付きの茶人で、現在も有名な千利休。
秀吉に仕えていた利休ですが、なぜか秀吉によって切腹を命じられます。
なぜそのようなことになったのか、なぜ商人である利休が切腹になったのか。
それらの謎に迫ってみます。
千利休とは
1522年から1591年にかけて生きました。本名は田中与四朗といいまして、意外と庶民的な名前ですね。
生まれは和泉国・境。境で「魚屋」という名前の倉庫商を営んだ裕福な家(豪商)の出です。
幼いころから茶の湯に親しみ、17歳で本格的に師匠に弟子入り。やがて豊臣秀吉の茶頭として招かれるほどに至ります。
彼は”わび茶”の完成者で「茶聖」として有名です。質素であることこそ茶の道だと考えていたようなので、秀吉の有名な「黄金の茶室」はどういう気持ちで見たのでしょうね?
派手好きな秀吉とはちょっと違うタイプかと思ういます。
原因
そんな利休が秀吉に切腹を命じられます。はっきりとした原因は今も議論されていますが、有力なものをいくつか上げます。
- 秀吉の部下たちの間で「石田三成派」と「徳川家康派」が権力闘争がおこります。利休は徳川家康派に属したのですが、それを快く思わない三成派の謀略に嵌められた。
- 大徳寺の山門に利休が自らの木像をほらせましたが、そうすると秀吉は山門を通るときに利休の下を潜らなければならないわけです。そういった態度が「不遜である」として、秀吉の不興を買いました。
現在は後者の説が有力なようですが、はたして質素を目指した利休が自ら自分の木像を掘ほらせるものでしょうか?
ひょっとすると、この木像は光成派の計略だったかもしれませんね。
上記でも少し述べたのですが、そもそもが利休と秀吉の「茶」に求めるものが違ったということもありそうです。
切腹
利休は商人でありながら切腹を命じられたわけですが、これは異例なことのようです。
利休以前に切腹を命じられた商人は見当たりません。
ただ、利休は自治都市堺の豪商でしたから、武将的な権力を持っていたともいえますので、武将として扱われて切腹を命じられたのかもしれません。
切腹というのは主に武士が行う日本独自の自殺方法なのですが、腹を切るというのは「腹に人間の霊魂と愛情がある」という古代の信仰に基づく手法です。
実際には切腹だけでは死に切れず、首をはねる介錯人というものがいました。最近は切腹は「フリ」だけで、実際は斬首で死んでいたのではないかとも言われています。
切腹は「自分で責任を取って死ぬ」という意味合いが強く出ています。まさに「死んでお詫びする」ということですね。
時代は少し下りますが、江戸時代初期あたりから、切腹は主君に「死を賜る」ものとして誉れある死と認識されます。
しかし、実際には刑罰として行われ、誉れある死とは言い難くなったようです。
徳川家康などは、刑罰として大勢の人々に切腹を命じましたしね。
つまるところは
秀吉が利休に切腹を命じたきっかけは分かりませんが、考えの相違があったのだろうと推測できます。
また、武家の感覚からすると、商人である利休に切腹を命じたのは、それだけ利休を評価していたからかもしれません。
ですが、実際に切腹を命じられた「商人」としては、どういう気持ちで受け止めたのか…気になります。
はたして武士のように、誉れある死と受け止めたのでしょうか。