上杉謙信は何故 毘沙門天の旗を使用していたのか
上杉謙信は「越後の虎」「越後の龍」の2つの名があります。その名前にふさわしく、武田信玄と何度も戦った川中島の戦いなど、戦国時代に残る最強の武将の一人です。14歳で初陣を飾り、それから48歳までの間に70回程の戦いをし、負けたのはたったの2回。「軍神」の名に相応しい勝率を誇っています。謙信と旗印といえば「毘」これは毘沙門天のことです。ではなぜ、謙信は毘沙門天の文字を使っていたのでしょうか? まず、毘沙門天とはどんな神仏なのか調べてみましょう。
毘沙門天とは!?
四方を守護する四天王の持国天、増長天、広目天、多聞天のうちの多聞天のことです。この多聞天を単独で安置する場合に「毘沙門天」と呼ばれます。毘沙門天は七難を避け七福を与える北方の守護神で闘神としても厚く信仰されています。
謙信と毘沙門天
自らを「毘沙門天の生まれ変わり」だと信じ、家臣にも「我を毘沙門天と思え」と言ったのは有名な逸話です。上杉家では誓約を結ぶ時は、居城である春日山城内の毘沙門堂で行われていました。ある時、急いで誓約をしなければならない事態が起こりました。毘沙門堂まで戻っている時間がないので謙信は自分の前で誓う様に家臣に言いましたが、家臣は従いませんでした。その時、謙信は「私がいてこその毘沙門天が降りてくる。私を毘沙門天と思って、ここで誓いなさい」と言ったという話も残っています。
自分を毘沙門天の化身と言いながらも、春日山城内にある毘沙門堂に毘沙門天を安置し、熱心に祈っていたといいます。また出陣前には毘沙門堂にこもり勝利を祈願していたと言われています。山形県米沢市の法音寺には春日山城内の毘沙門堂にあったご本尊が現存しています。このご本尊は「泥足毘沙門天」といわれ代々の上杉家で大切にされてきました。
上杉家の旗印
戦いの際に使っていた旗印はいくつかあり、有名な刀八毘沙門の「毘」一文字の旗は「戦の加護と勝利」を懸かり乱れ龍の「龍」一文字の旗は敵に総攻撃を仕掛ける時に本陣に立てられました。他には紺地に日の丸が描かれた旗もありました。ちなみに「龍」の文字は不動明王を表します。
謙信と信仰
幼い頃は手に余る乱暴な子供だった様ですが、7歳から寺に入門したことで兵学などの教養を養い、信仰心を育んだようです。天才的な戦術はここが基点となっているようです。合戦好きと言われている謙信でも戦いに疲れ出家して高野山に行こうとしたこともありました。謙信は真言宗を信仰していたので宗派の戒律で女性との交わりを禁止されていたことが、妻帯しなかった理由ではないかという見方もあるようです。また女犯戒を守ることで勝利を祈願していたのかもしれません。
謙信が毘沙門天の旗を使っていたのは深い信仰心と、自らを毘沙門天の化身といっていること、また毘沙門天は闘いの神様であることなども含めて、使っていたのではないでしょうか。