豊臣秀吉が天下統一を成功させた理由は?
多くの有能な戦国武将たちを抑え、天下統一を果たした豊臣秀吉。
なぜ秀吉は天下統一を成功させることができたのでしょうか。また、なぜ秀吉だったのでしょうか。
秀吉の出自がカギ?
他の戦国武将と秀吉の最も大きな違いはその出自でしょう。
信長や家康が生まれながらにして大名の子であり、先祖代々の土地をひろげ、守っていく一種の責任を負っていたのに対し、貧農の息子として生まれたとされる秀吉にはある意味怖いものなどなにもない、失うものは何もなかったのです。だからこそ他の戦国武将の誰よりも大胆な行動をとることができたと考えられるのではないでしょうか。
落ちるところまで落ちたらあとは登るだけというのは今も昔も変わらない。そのことが秀吉の行動力につながっていったと考えられます。
何もないから周囲の評判など気にせず、出世のため、信長の目に止まるために、草履を懐で温めることくらい簡単にやってのけることができたのです。
秀吉の人脈の背景は
次に注目したいのは秀吉の人脈の広さです。
信長の家臣として秀吉の人脈が活かされた最初の事例は、「一夜城」とも呼ばれる墨俣城の築城の時でした。
秀吉は佐久間信盛や柴田勝家ら信長の重臣が失敗に終わっていた墨俣城を見事完成させ、信長の美濃奪取を成功に導いたのです。
その成功のカギとなったのが、秀吉が自らの人脈を駆使して集めた技術者集団でした。木材伐り出しの山方衆や木曽川の交通・運輸の船頭衆、鉄製道具を作る鍛冶師、尾張各地の大工棟梁衆。
なぜ、秀吉はこんなにも広い人脈をもっていたのでしょうか。
その理由として戦国時代研究で知られている小和田哲男氏は秀吉自身が”ワタリ”であった可能性を挙げています。
”ワタリ”というのは中世における技術者のことで、仕事を求め各地をさまよい歩いた漂泊の民です。
秀吉の母が鍛冶師の娘であることや秀吉自身が鍛冶師の徒弟となったことがあるという伝説、秀吉の幼名・日吉丸の名前の由来となった日吉神社が”ワタリ”に信仰されている神社であることなどがその根拠とされています。
秀吉自身が技術者と何らかのつながりがあり、そのことが墨俣城築城の時に発揮されたような広い人脈を作ったと考えられているそうです。
「人たらし」といわれる褒め上手
秀吉はとにかくよく褒める人物であったようです。ちょっとしたことでも真剣に、しかも上からではなく低姿勢に褒めたといわれています。
こうしたことから秀吉は「人たらし」と評されます。「女たらし」としても知られる秀吉ですが、女以外も「たらし」ていたのです。
あまりに褒められるものだから、どんなに過酷に使われても嫌がられず、かえって尊敬される。
もともと出自の低い身分であったことがこうした姿勢につながっているのかもしれませんが、頭の切れる秀吉のことですから、きっと考えがあってのことだったのでしょう。
他の家臣のように古くからの家来を持たなかった秀吉が、黒田官兵衛や竹中半兵衛など当時において有能と知られた軍師たちを家来とすることができたのも、秀吉の「人たらし」の才の為せる技と考えられます。
スケールの大きな調略
調略というのは簡単に言ってしまえば「根回し」ということです。
秀吉は視野が広く、ものごとの全体に目を配り、手を打っていくタイプの人物でした。
こうした秀吉の才能は若くしてすでにあり、薪奉行を命じられた際に、経費節減のためこれを上納制に変え、さらに苗木を渡したというエピソードにもよく表れています。
目先のことだけでなく、その先のことまで考えるのです。
城攻めに関しても、直接武力によって攻撃せず、水攻めや兵糧攻めを用いて、利益をもって懐柔したり、離反するように裏工作を行ったりと、様々な手を用いています。いち早く敵を降伏させることを目的とすれば武力が一番手っ取り早いわけですが、そうせずに城も人も土地も傷つけずに手に入れることのほうが後々利益が大きいのです。そのためには労を惜しまない。
秀吉が天下統一に大きく近づくきっかけとなった清州会議でもこうした秀吉の調略の才は存分に発揮され、そして結果として大きな戦を経ずに天下を手に入れてしまったのです。