豊臣秀吉の死因は現代人も悩む癌だった!?
下克上の戦国の世の中とはいえ、農民から太閤にまで大出世した秀吉。17歳から信長に仕えた秀吉。懐で信長の履物を温めていたのは有名な話です。
信長の死後、天下をとり大阪城を居城にして朝廷から関白、そして太政大臣に任じられ豊臣を名乗るようになります。関白を秀次に譲り、自らは太閤となりました。
栄華を極めた秀吉の最期はどんな風だったのでしょうか?そしてその死因は何だったのでしょう?
晩年の秀吉
信長亡き後、勝家や家康との争いを経て権力を握り、1585年には大阪城を築城。同年、臣下として最高位の関白になりました。翌年には太政大臣になります。
その時、朝廷から豊臣の姓を与えられました。朝廷の臣となった秀吉は京都に豊臣家の本邸・聚楽第を建てこの場所で執務を行うようになりました。1589年には側室・淀殿が嫡男・鶴松を出産。
1590年に、小田原城攻めの時に参戦した伊達政宗を配下にし、東北地方に対して奥州仕置を行い。全国統一を果たした。この翌年から秀吉の栄華は傾き始めるのです。
1591年、嫡男・鶴丸が病死。続いて、秀吉の片腕として信頼の厚かった弟・秀長も病死。同じ年に千利休を切腹させています。
翌年には二度の朝鮮出兵を行われ、多くの人が亡くなり豊臣家の勢力が弱まっていきました。一旦は養子の秀次に関白を譲ったものの、淀殿が二人目の子・秀頼を出産した年に秀次を切腹させます。地震で伏見城が倒壊するなど不運が続きました。それを払拭するためなのか、1598年3月、醍醐三宝院で盛大な花見を催しました。この花見の後、秀吉は病に倒れます。
病状と死因
1598年と5月、秀吉は体調を崩し段々と病状は悪くなっていきました。8日に行く予定だった湯治を取りやめています。
下痢・腹痛、食欲不振の症状があり、数ヶ月後にはやせ衰えていたと伝わっています。漢方薬も効果がなく、無意識に失禁することもあったようです。
秀吉の症状から判断される死因は、腹痛や急激に痩せ細ったことから大腸がんなどのガン説、高齢が原因の認知症、栄養の偏りにより脚気、性病・梅毒、あるいは女好きがたたり過淫が原因の腎虚などがあげられますが、はっきりとした原因は分かっていません。
遺言
秀吉は亡くなる前に徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家に宛てて遺言を残しています。
「返すがえすも秀頼のこと頼み申し候。五人の衆頼み申し候。委細五人の者に申しわたし候。名残惜しく候。以上」
幼くして残していく秀頼のことが心配だったようで、家康や利家には秀頼に忠誠を尽くすことを誓わせています。天下統一を成した秀吉でも息子のことになると、心配でたまらなかったのでしょう。秀吉の辞世の句は
「露と落ち 露と消へにし わが身かな 浪速のことは 夢のまた夢」
秀吉にとっては栄華を極めたことも儚い夢のようだったという意味なのでしょうか。