大陸文化の影響を大いに受けた 奈良時代の人々の服装の特徴
奈良時代は元明天皇が710年に奈良の平城京に遷都してから、桓武天皇が794年に京都の平安京に遷都するまでの84年間のことをいいその都の名から「平城時代」とも呼ばれます。
天平文化が花開いた時代であり、遣唐使や朝鮮半島との交流も盛んであり、大陸文化の影響を大いに受けた頃です。
服装も唐の影響を大いに受けていました。
そんな奈良時代の貴族と庶民の服装とはどのようなものだったのでしょうか。
貴族男性の服装
718年に制定された養老律令には衣服令というものも定められており、そこで朝廷で着る服も細かく決められていました。
大嘗祭や元旦など重要な祭祀の時に着る「礼服」、毎月一回朝庭という場所で行われた朝会といわれるまつりごとの時と、公事と呼ばれるものをする時に着る「朝服(ちょうふく)」、特別な官位を持たない官人が朝廷の公事を行う時に着る「制服」がありました。
これら「礼服」「朝服」「制服」は地位や役職によって形式や色が決められていました。武官(軍人)の礼服と朝服は袖の付け根より下側の脇を縫わず、前身と後身が分かれている袍(ほうと読み、上衣の一つとされるもの)であったそうです。裾が縫い合わさっていないので、動きやすいものだったそうです。
また、文官(官吏のうち武官以外の者)の礼服は逆に、脇の下の部分が縫われ、裾周りに襴という裂を横向きにめぐらされた袍を着ていたそうです。そして下には白袴をはいていたと言われています。
服の材料は絹で作られており、象牙でできた笏を持ち、腰には刀を下げ、鼻高沓と呼ばれる靴をはいていました。頭には玉をちりばめた冠を被っていました。また、ウエストを固定するために腰の部分には革のベルトのようなものをしていたと言われています。これは身分に順じて金・銀・銅のかざりをつけていたそうです。
貴族女性の服装
女性の服についても律令で着るものが定められていました。唐の影響を受け、それまでの時代よりも更に華やかになりました。
髪型も唐風のものとなり、高い位置で頭の中央にまとめたりして飾りをつけていました。上半身は薄い藍色の衣をはおり、その上から背子(はいし)と呼ばれるベストのようなものを着て、さらにその上に肩から領巾(ひれ)と呼ばれるショールを羽織っていました。下半身は裳(も)と呼ばれるスカートのようなものをはいて、腰に帯でとめていました。
手には顔を隠したり、虫を追い払ったりするための扇を持ち、足にはつま先に飾りのついた浅沓(あさぐつ)と呼ばれる靴をはいていたそうです。
庶民の服装
庶民の服装についてはよくわかっていないそうですが、前時代とあまり変わっておらず、男の人はわきの下を縫っていない上着を着て、帯で結び、下は褌(ふんどし)の上に袴をはいていたそうです。
女の人は脇の下を縫った上着を着て、その下にスカートのようなものをはいていたとされています。衣服の材料は主に麻で、自分の家で織った物を使っている人もいたそうです。
色は男女ともに黄色とされ、家人や奴婢などのさらに身分の低い者は黒と決まっていました。
貧しい農民はぼろぼろの衣服を着ていました。「(前略)人間に生まれ、人並みに耕しているのに、綿もなく破れたぼろを肩にかけ、つぶれかかった家の中の地べたにわらを敷き(後略)」と山上憶良の記した「貧窮問答歌」に書かれています。当時の農民の辛さが目に見えるようです。
この時代頃から貴族も庶民も、唐に倣って「左前」から「右前」に衣服を合わせることが定められました。(元正天皇「右衽着装法(うじんちゃくそうほう)」)