徳川家康と鷹狩り 家康が鷹狩りに夢中になっていたわけとは
鷹狩りって、鷹を狩る?…ことではなくて、鷹を使って狩りをすることです。腕に大きな鷹を乗せている図、見たことがある方も多いのではないかともいます。
鷹狩りをこよなく愛した大名の筆頭が、徳川家康でした。生涯で1000回以上も行ったと言われています。
好きは好きでも、なぜこれほどまでに家康は鷹狩りを行ったのでしょうか。そもそも、鷹狩りってどんなふうにやるものなのでしょう。
色々な意味が込められた鷹狩りと家康の意図について、検証してみたいと思います。
家康が鷹狩りをよく行った理由
家康は幼いころから鷹など鳥が好きだったらしく、百舌鳥を飼いならそうとしたこともありました。
また、今川氏の人質時代にも鷹にまつわるエピソードがあります。
家康の屋敷の隣には孕石元泰(はらみいしもとやす)という今川の家臣が住んでいましたが、家康が鷹を放すと彼の屋敷に入り込んでしまうことがありました。そこで鷹を取りに行くと、孕石は「人質の分際で鷹狩りなどとは生意気だ」とか「三河の小せがれの顔を見るのは飽き飽きだ」とか何かと嫌味を言ったのです。
おそらく幼い家康は何も言い返せずにこらえたのでしょう。
後に、武田氏と争った高天神城(たかてんじんじょう)の戦いの時に、家康は捕虜の中に孕石がいることに気づきました。
彼は「わしもお前の顔を見るのは飽き飽きだ」と言い、孕石を切腹させたそうです。
幼くして他家に人質に出て、少ない側近たちとの心細い日々の中で、鷹は家康の心の癒しだったのだと考えられます。
また、長じた家康は鷹狩りに多くの意義を見出しています。
彼は鷹狩りについて、「(鷹狩りは)娯楽のためだけではなく、郊外に出て民の様子を察するためだし、身体を動かして健康にすることだ。暑さ寒さを厭わず走り回ることで、病にもかかることなどなくなる」と言及しています。
江戸幕府の公式史書である「徳川実紀(とくがわじっき)」の中でも家康についての記録である「東照宮御実紀」にも、鷹狩りの目的として、民情視察・軍事訓練・身体鍛錬・家臣の知行所支配の実態把握・家臣等の剛弱究明・色欲調節・士風刷新とその高揚・他領国の情勢探索・地方支配の拠点づくり」と記されています。
家康は食生活に気を遣い、自分で薬を調合したりするなど健康オタクの感がありましたが、鷹狩りをして体を動かすことも彼の健康法のひとつでした。
また、鷹狩りの場合はいくつもの狩場に出かけます。その際に領内の民衆の生活を見て回ることができました。それに加えて、多くの家臣を従えて広い狩場に行くことで、戦の予行演習にもなったのです。
もちろん自分の楽しみもあったでしょうが、広い領地の状況を自分の目で見ておくことが大事だとわかっていたのでしょうね。
彼の狩場は、三河時代は浜松城下だけでなく尾張国(愛知県西部)や遠江国(静岡県西部)に及びました。江戸に拠点を移してからは、埼玉県から千葉県にかけての一帯がそうでした。
加えて、家康は天下を取った後に公家などが勝手に鷹狩りをすることを禁じ、鷹を勝手に売買することも禁じました。鷹狩りが限られた人物にしかできなくすることで、これを権威の象徴としたのです。
鷹狩りとは
鷹狩りの歴史
鷹狩りの起源は紀元前2000年頃にまでさかのぼると言われ、中央アジアやモンゴル高原が発祥の地だそうです。そこからペルシャやヨーロッパに伝わり、貴族や聖職者によって各地に広まっていきました。この時点ですでに高貴な身分の人々が行うものだったようです。
日本には、仁徳天皇の時代(4世紀)に大陸から伝わりました。王侯貴族の遊びとしてもてはやされ、中世以降は力を付けた武家も行うようになっていきます。
そして、戦国時代には武将たちの嗜みとなりました。
今でも鷹狩りは伝わっていますが、行う人は少なくなっています。
鷹狩りの方法
鷹狩りといえど、使用する鷹はいくつかの種類があります。タカ科のイヌワシ、オオタカ、ハイタカに加え、ハヤブサ科のハヤブサも使いました。オオタカやハイタカは扱いやすかったそうです。イヌワシは王者の象徴であるため、そう簡単に使用することはできませんでした。
そしてご注意。鷹狩りは、決して鷹が獲物を捕らえて自分で主のところに持ってくるわけではないのです。
まず、茂みや林にいる獲物を犬や勢子(せこ)という追い立て人員が追い立て、飛び立った瞬間に鷹を放して捕えさせます。これは猛禽類の狩猟本能を利用しています。そして、獲物を捕らえて地面に舞い降りた鷹のところに走っていき、エサを与えて獲物と引き換えるのです。
今では鷹匠と鷹だけで鷹狩りを行ったりするようですが(国や流派、獲物の種類などにより異なります)、家康の時代の鷹狩りはもっと大規模でした。
鷹・鷹匠・猟犬・犬引き・馬・騎馬者・勢子と大集団で、勢子は数百人を超えることもあったのです。
家康以外の武将も鷹狩りをした?
織田信長
戦国武将たちはみな嗜みとして鷹狩りをする者が多かったのですが、その中でも鷹狩り好きとされているのが織田信長です。おそらく鷹狩りの話で家康とは盛り上がったのではないでしょうか。
信長は、関白を務めなおかつ鷹狩りの権威であった近衛前久(このえさきひさ)と親しく交わりました。ちなみにこの近衛前久が著した「龍山公鷹百首(りゅうざんこうようひゃくしゅ)」という鷹狩りの解説書は、家康と豊臣秀吉が写本をもらっています。
信長が鷹狩りを民情視察に使っていたという逸話が、小瀬甫庵(おぜほあん)の「甫庵信長記(ほあんしんちょうき)」にあります。
信長が鷹狩りに出た際、ある村で嘆き悲しんでいる老婦人に出会いました。わけを聞くと、老婦人の家が代々持っていた田畑を里長に取られてしまったというのです。信長はそれを聞き、城に帰ると部下に事情聴取を命じました。そして里長の不正が発覚すると、老婦人が奪われた田畑を戻してやったということです。
これはあくまで逸話であるので、事実かどうかはわかりませんが、このようなこともあったのかもしれません。いつの時代も現場を見るということが大事だったというわけですね。
徳川家光
祖父:家康を深く尊敬していた家光は、鷹狩り好きな部分まで祖父にならっていました。
家光の場合は鷹狩りを将軍と幕府の権威の見せどころとしていた感もあり、勢子を多数引き連れて行ったそうです。そして、江戸中の様々な場所で鷹狩りに来た家光ゆかりの話が伝わっており、彼がしょっちゅう鷹狩りに出ていたということは本当だったようです。
彼の場合も逸話があります。
鷹狩りが好きすぎた家光は、いちいち城に帰るのが面倒だと狩場の近くの民家に泊まってばかりいました。家臣は危ないからやめてほしいと言いますが、家光は聞く耳を持ちません。
ところで、家光が泊まっている民家に伊達政宗がやってきます(実は家臣に頼まれたとも言われています)。尊敬する政宗に対し、家光は「家臣たちが危ないだの何だのうるさいのだ」と愚痴をこぼしました。
すると政宗は、「それは心配しますよ。私も何度、鷹狩り中の家康公のお命を狙ったことか」。
それ以来、家光は民家に泊まるのをやめたそうです。
徳川吉宗
8代将軍吉宗は、5代将軍綱吉による生類憐みの令で停止となっていた鷹狩りを復活させました。質実剛健で知られた彼は、当時の武士たちが軟弱化していると感じ、鷹狩りを武士の剛の部分を取り戻す軍事教練の場としたのです。
ただ、倹約で知られた彼は、鷹狩りに関連する風習も簡略化しました。将軍のお成りの場合は商売を休んだり店の看板を外したりしなければなりませんでしたが、吉宗はそうした風習をやめるように命じたのです。加えて、泊りがけの鷹狩りはしませんでした。
そして彼は鳥見役(とりみやく)という役職を設置しました。鷹匠は鷹の調教に当たりますが、鳥見役は狩場の管理や鷹狩りの準備、周辺の治安確保などを担当しました。鳥の生息状況なども把握し、狩場ではより獲物のいる方へみんなを誘導する役割もあったのです。
まとめ
家康の血筋には鷹狩り好きが多かったようですね。信長も好きだったということで、きっと2人は鷹狩りを一緒に楽しんだりしたこともあったのでしょう。
ただ戦が激しくなると、なかなか鷹狩りに興じることもできなかったかもしれません。
だから、将軍となって天下を統一した後、家康は存分に鷹狩りを楽しんだのでしょう。
静岡県の駿府城公園には、片腕に鷹を載せた家康の像がありますよ。