徳川家康の性格をエピソードを交えて簡単紹介
徳川家康というと、知らない人はいないかもしれません。
江戸幕府を開き、260年にわたる天下泰平の時代を築いた立役者。
それほど有名な家康ですが、実際はどういう人だったのでしょう? 簡単にエピソードを交えながら、どんな性格だったかを紹介していきます。
どういう人?
名前は有名でも、概略もよく知らない人も多いと思われます。ざっとまとめてみました。
彼は1543年1月31日に三河国の弱小な豪族の家に生まれました。弱小な家柄ゆえ、人質として不遇な子ども時代を過ごします。
転機が訪れるのが1560年。人質となっていた今川氏が織田氏に敗れると、彼は晴れて自由の身となり、織田信長と同盟を結びます。
しかし、1582年に本能寺の変で織田信長は没し、次に天下を取った豊臣秀吉とは対立します。
1590年に小田原討伐を終えると、家康を危険視した秀吉に今までの領地を取り上げられて関東へ赴任させられることとなります。
秀吉の死後、関ヶ原の合戦に勝利した家康は1603年に征夷大将軍となり、天下人となります。
不遇に耐え続け、ようやく天下を統一した家康。「鳴かぬなら 鳴くまで待とう 不如帰」ですね。
忍耐
生い立ちからするとかなり忍耐強いイメージがあり、実際耐え続けて征夷大将軍になったのですが、短気だったとも言われます。
合戦で裏切る約束をしていた武将がなかなか動かず、いらいらして早く動くように伝令を飛ばしたというエピソードがあります。
また彼は幼年期に人質として生活していましたが、気にいらないことがあると癇癪を起こす、気にいらない年下の臣下を縁側から突き落とす…などのエピソードがあります。
ですが、天下をとれたのは人質として耐え、秀吉の遠方への赴任にも耐え、信長と秀吉の死まで動くのを耐えていたわけですから、やはり忍耐の人だったとも思えますね。
健康指向
天下人というと秀吉のように豪勢なイメージがあるのですが、家康は質素なものを好みました。
麦飯を好むなどの記録がありますので、今でいうオーガニックで健康食を心がけていました。
食生活を聞くだけでも健康的だなと感心してしまいます。その通り、家康は当時としては長寿の75歳(満73歳4カ月)まで生きます。長寿ゆえに天下を取れたといえます。
彼は薬マニアで、自分で調剤などをしていました。根付(キーホルダー)の発案も彼によるものです。
江戸以前、薬は高価で持ち歩くような習慣はあまりなく、旅をする人々は印籠(判子を入れる携帯容器)に常備薬を入れて持ち歩いていました。
それをもっと手軽に常備しやすいように、とのことで薬を入れるのに良いサイズの根付が開発されました。
根付という名前は「根付け(ねづけ)」という願いからつけられています。自分には勿論、他の人々にも薬の携帯を推奨し、健康であることを願っていたようです。
余談ですが、家康が祀られている東照宮大権現の本地仏は、薬師如来です。
倹約
現在では「倹約」とされますが、一言で言うとケチでした。これに関するエピソードは事書くことがありません。
- 着物をあまり新調せず、同じものばかり着るので洗濯係の女中が意見したところ「これは倹約だ!」と叱った。
- 浅黄色の下着を使っていた(浅黄色は汚れが目立たないので、使いまわしがきくようです)
- 漬物が塩辛いと奥女中から苦情を受けた家康は、料理番に問いただします。すると「ただでさえ奥女中はおかわりをするのに、これ以上美味しい漬物を出すと更におかわりの回数が増えてしまう」という言い分。家康は漬物の質をそのままにした。
以上のように倹約に努めた家康は、莫大な財産を築きあげ、江戸幕府の礎となりました。
まとめ
家康の性格を簡単にピックアップしてみましたが、イメージとは違ったでしょうか。
家康は長寿な上にかなりの有名人ですから、挙げたエピソードで彼を語ることは出来ません。「人」としての、もっと色々な面を知りたいですね。