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徳川家宣の死因は当時流行のインフルエンザだった!?

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第六代将軍徳川家宣は名君と呼ばれ、新井白石らとともに正徳の治を行いました。

しかし、わずか在職3年でこの世を去っています。

徳川家宣の死因とはいったい何だったのでしょうか?

徳川家宣の死因

徳川家宣は1712年、将軍職についてわずか3年余りで亡くなりました。(満50歳)

その死因は当時流行していた感冒(インフルエンザ)だとされています。

家宣は正徳2年(1712年)9月14日から風邪様症状が出始め、ちょうど一カ月後の10月14日に亡くなりました。

家宣は前将軍綱吉と同じく後継者に恵まれず、側室との間にわずか3歳の家継がいただけでした(他に4人の息子が生まれたが、いずれも夭折しています)。

家宣は死の床についた時、間部詮房を通じて新井白石に後継者問題について相談を持ち掛けています。家宣は次のような二つの案を提示したと言われています。

1.鍋松(家継)は幼少だから、次の将軍は尾張の徳川吉通がよい。鍋松の処遇は、吉通に任せる。

2.鍋松(家継)に将軍を継がせ、徳川吉通を鍋松の継嗣として政務を執ってもらう。

しかし、新井はそれをどちらも否定。後継者問題については「鍋松(家継)を後継ぎとし、譜代の者がこれを補佐するのがよい」と進言、家宣もこれを受け入れた後、間もなく息を引き取りました。

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当時のインフルエンザは死の病!?

インフルエンザの歴史は長く、流行性感冒とも言われ、世界的に流行することが多い病気です。

16世紀からは少なくとも30回以上の世界的な大流行があったと言われており、その最大のものは2000万人もの死者を出した1918年のスペイン風邪と言われています。

日本でも平安時代の「増鏡」にインフルエンザの記述が描かれており、江戸時代には「谷風」「お駒風」など当時の風俗・世相を表した名前がつけられ、複数回の流行がありました。

江戸時代にはもちろん今のようなタミフルなどの治療薬は無く、対症療法で治癒するのを待つしかありませんでした。また、現在のように予防注射もないため、一度感染者が出ると大流行につながる恐れがありました。

今でこそインフルエンザでの死亡率は0.05%ほどとなっています。しかし、例えば先述のスペイン風邪流行の時、日本では人口の約半数の2380万人が罹患し、38万8727人が死亡したと報告されています。

この時はまだ血清療法も確立されておらず、抗生物質もありませんでした。インフルエンザがウイルス感染だということが明らかになったのも、このスペイン風邪が流行した時から10年以上経ってからでした。

1900年代に入ってですらこのような状況だったのですから、江戸時代でも流行すると高い割合で死亡する人が多かったのでしょう。

By: NIAID

当時の治療法

先述した通り、抗生物質も何もなかっただけではなく、ウイルス性の病気だという事すら分からなかった時代でした。

ですから、ウイルスが発見されワクチンなどがつくられるようになるまでは、普通の風邪と同じ様に床に伏し、安静にしておくという最低レベルの対処療法しか出来なかったという事で、この家宣以外にも多くの人が当時流行していた感冒によって命を落としています。

Sakura

投稿者プロフィール

天智天皇~称徳天皇朝が好きな一児の歴女ママです。
夢は奈良の明日香村付近に住んで、その時代の古墳やゆかりの地巡りを満喫したいなと思っています。
皆さんに読みやすく、そして分かりやすく面白い文章をお届けしたいです。

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