徳川家茂は毒殺されていた!? 画策した人物はいったい誰?
第14代将軍、徳川家茂。
次の将軍、徳川慶喜の陰に隠れて存在感の薄い彼ですが実は名君だったと言われています。
そんな彼には毒殺説があるのですが、いったい誰に毒殺されたというのでしょうか。
徳川家茂の死因と死に際の様子
徳川家茂は第二次長州征討の途上である大坂城で病に倒れました。
その報を聞いた義兄である孝明天皇は、高階経由と福井登という二人の医師を大坂城に派遣しました。
また、江戸城からも妻の和宮や養母の天璋院の侍医として留守を預かっていた、大膳亮弘玄院らが大坂城に駆け付けました。
しかし、これら複数の医師の看病の甲斐もなく、家茂は慶応2年7月20日(1866年8月29日)に20歳の若さで亡くなりました。
徳川家茂の死因は征討などによる過労と脚気だと言われていますが、その脚気の遠因となったのは虫歯だと言われています。
エナメル質の薄い体質に加え、大の甘党で虫歯が多かった家茂。その虫歯や偏食のおかげでビタミンB1不足になり、脚気になったようです。
また、医師たちの見解の相違も家茂の命を削ったのではないかとされます。(漢方医の高階家茂らは脚気説を、西洋医である幕府側の医師たちはリウマチだとした)
死に際して家茂は、次期将軍として田安亀之助(後の徳川家第16代当主・徳川家達)を指名しました。(その遺言は実現されず、徳川慶喜が継承しました)
家茂を毒殺する目的は!?
徳川家の菩提寺である増上寺の改修の際に行われた遺骨の発掘・調査によると、家茂は上記の通り病死であったことがわかりました。
しかし、家茂の暗殺説は昔からささやかれています。
ではいったい誰が暗殺したというのでしょうか。
家茂は孝明天皇の異母妹である和宮と結婚し公武合体の象徴とされてきました。そんな家茂を殺すことで、朝廷を倒幕に向かわせようとした長州藩士の策謀説。
または徳川慶喜を将軍にしたい幕府の一部勢力(または慶喜自身)の仕業という説などがあります。
いずれにせよ権力争いの果ての暗殺ということになりますね。ちなみに孝明天皇も家茂の後を追うように満35歳の若さで亡くなっていますが、この天皇も毒殺されたという噂もあります。
家茂は毒殺されたと信じ込んだ天璋院篤姫
徳川家茂の養母である天璋院こと篤姫は、家茂は毒殺されたと信じ込んだようです。それも徳川慶喜によって。
元々、天璋院は慶喜のことを嫌っていたと勝海舟が述べています。
そして、天璋院の夫である徳川家定にこそ毒殺の噂がありました。これは慶喜を擁する一橋派の仕業だと思いこんだ天璋院。
さらに大坂で若くして亡くなった家茂の遺体が江戸に戻ってきた時、その顔は毒を盛られたかのように黒ずんでいたと言います。それを見た天璋院は家茂までもが慶喜によって毒殺されたのだと思いこんだのです。
天璋院は自分が育てた徳川家達の娘にも「うちの家訓として家茂が毒殺されたということを子々孫々まで伝えよ」と言い伝えたようです。