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虫歯が原因!? 甘党の徳川家茂の死因とは

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最後の将軍徳川慶喜は、歴史上有名ですが、その一代前の徳川家茂は、その陰に隠れてメジャーではありません。ドラマや映画で取り上げられても、病弱な将軍として描かれていますが、意外にも部下思いの名君であったとも伝わります。

20歳の若さで死んだ家茂の死因とは、どのようなものだったのでしょうか?

将軍後継のゴタゴタで、12歳の若さで将軍職を継ぐ

13代将軍、家定が後継者を決めずに死去した為に幕府は、水戸の徳川慶喜を推す慶喜派と紀州の徳川慶福(後の家茂)推す慶福派に分裂しました。慶福派の伊井直弼は、大老の権限で強引に後継者を慶福と決定します。

これが、慶喜派の恨みを買い、安政の大獄と同じく、桜田門外の変の原因になります。

ともあれ、これにより、家茂は、12歳で14代将軍に就任するのです。これだけ見ると、棚ボタで将軍になったロボットのようですが、決してそうではなく家茂には名君の素質がありました。

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勝海舟を感激させた、家茂の信任

家茂の人物を絶賛している人物には勝海舟がいます。海軍奉行だった勝は、海軍力の重要性を訴える為に、家茂等、幕府重臣を軍艦に乗せて大阪湾を進んでいました。しかし、突然、天候が悪化し艦が揺れ始めると、重臣は狼狽して、あれこれと勝に指図を始めます。うんざりしている勝ですが、この時家茂は、騒ぐ重臣を制止します。

「この軍艦のキャプテンは勝である、私を含め、全ての乗員は勝の指示に従わなければならない」

この言葉を聴いて、勝は感激し終生、家茂には好印象を持ち続けました。勝は、この一事に気を良くし、さらに軍艦を動かす人材を育成する為に神戸に海軍操練場の建設を上申しますが、これも即座にOKを出しています。ただの言いなり将軍ではなく、先を見通す力を持った将軍だったのです。

細やかな心配りで、和宮のハートを射止めた優しい将軍

家茂と言えば、公武合体の当事者として、孝明天皇の妹、和宮を正室に迎えた人物として知られています。公武合体とは、朝廷と幕府が縁戚を結び、国難を乗り越えるという思惑から産まれた事で、家茂と和宮は政略結婚でした。しかも和宮には、相愛の許嫁もあり、悲しみの底での結婚でした。

ところが、家茂は和宮の悲しみが伝わったのか、こまめに贈り物をし、手紙を書き、和宮が孤立しないように気遣います。その内に和宮の心にも変化が生じて、政略結婚だった夫婦にも本当の情愛が産まれてきたのです。

虫歯からの脚気で急死、大の甘党だった家茂

家茂は、1866年第二次長州征伐の途中、20歳で急死します。

その死因は、意外にも虫歯でした。家茂の頭がい骨を調べると、現存する31本の歯のうち、30本が虫歯、産まれつき歯のエナメル質が薄い家茂は、虫歯になりやすい体質。しかも、家茂は大の甘党で、甘いものばかり食べていました。それにより、ビタミンB1不足が生じて脚気を起したようです。

脚気は、20世紀に入るまで、原因も治療法も分からない病気で、手足が膨れて感覚がマヒして、立つ事が困難になり、最後は、心臓麻痺を起して死ぬという恐ろしい病気でした。

現在では、ビタミン群を処方する事で直ぐに回復しますが、当時は、そのような治療法は分かりません。こうして、心優しい青年将軍家茂は20歳の短い生涯を閉じるのです。

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