関ヶ原の戦で吉川広家の「弁当食べてるので出陣できません」発言って本当?
腹が減っては戦はできぬということで、武将にも兵士にも(というか人間みんなそうですが)、食事はとても大切なものでした。
関ヶ原の戦いで、「宰相殿の空弁当」というエピソードがあったのをご存知でしょうか。
毛利秀元が軍を動かさないことに対して、催促してきた使者に、「兵に弁当を食べさせているので出陣できない」と答えたというエピソードです。
秀元の官位にちなんで前述の名前が付けられました。
しかし、ここには毛利方の武将吉川広家の存在がありました。
さて、広家はいったい何をしたのでしょうか。
本当に、弁当を食べるために秀元の邪魔をしたの?
元々、広家は東軍への参加を提言していました。しかし、それが容れられなかったため、密かに家康に内通し、毛利の所領安堵の密約を取り付けていたのです。
ここには、広家がとにかく主家を守りたいという気持ちがありました。
そのため、関ヶ原の戦い本戦に参加し布陣しますが、広家はあえて大将の秀元の前に陣取り、彼の出陣を邪魔したのです。
秀元には出陣する気がありましたが、広家が陣取っていては動けません。何故、動かないのかと問うと、広家がこう答えたのだそうです。「兵に弁当を食べさせているので出陣できません」と…
結局、秀元は動くことができないまま、戦いの決着はついてしまい、引き上げざるを得なかったのです。
広家と秀元の関係
広家の父:吉川元春は毛利元就の二男で、秀元の父穂井田元清は四男です。そのため、2人は輝元も含め従兄弟同士にあたります。
ただ、秀元は輝元の養子に入ったため、毛利姓を名乗ることになりました。
従兄弟とは言っても、2人の年齢は18歳離れており、親子と同じくらいの年齢差でした。
広家が秀元の邪魔をした理由
広家が毛利家を守ることを第一に考えていたことは明白です。東軍に内通しているわけなので、戦いで頑張りすぎてはまずいのです。
ところが、秀元はそんな事情は知りませんし、剛勇で知られた若者でした。戦意もあったことでしょうし、もし彼を戦場へ送り出してしまったら、どんな大活躍をしてしまうかわかりません。
とにかく密約を反故にされないようにしなくてはと、広家は必死の思いで弁当話をねじりだしたのではないかと思われます。
何でもいいから、秀元を足止めするのが彼の目的でした。目論見は何とかうまくいき、年上の従兄弟である広家が上手であることが証明されたわけです。
当時の合戦時の弁当とは
弁当を食べてるからとは言っても、当時の戦での弁当とはどんなものだったのでしょうか。
今のように弁当箱に詰めてというわけにはいかなかったようですが、陣地で煮炊きをしたりしていました。
また、兵士が携行した食料は、干飯の他、焼いた味噌を丸めたものや、梅干しなどでした。梅干しに関しては、梅肉を丸めて糸でぐるぐると巻いて干したものを持ち歩き、なめて唾液を出したり、塩分補給などに役立てていたそうです。
また、サトイモの茎を味噌で煮込んだ後乾燥させたものを携行していました。これらはすべて水で戻すことができ、味噌汁を即席で作ることが可能でした。

By: Toshihiro Gamo
まとめ
正直なところ、この弁当のエピソードを聞いたときは笑ってしまいました。でも、広家にとっては、主家を守るための一か八かの賭けに出ていたわけなので、笑ってはいけませんね。広家の忠誠心を改めて感じることができました。
ちなみに、周辺の農民たちは、弁当持参で戦を見に行ったりしたそうですよ。関ヶ原の戦いを見ていた人たちもいたんでしょうね。