久坂玄瑞の性格はどんなものだったのか
松下村塾きっての才英を謳われた久坂玄瑞は、天保11年(1840年)に萩の医師久坂良迪の三男として生まれます。幼名を秀三郎と言いました。
幼少時から才気煥発な秀三郎は、稼業の医師となるべく城下の私塾に、ついで藩の医学所・好生館に学びます。
しかし、わずか2年の間に両親と兄を亡くし、秀三郎は15歳で医師として自立しなければならなくなり、医師らしく頭を丸め、名前も玄瑞と改めます。
この少年期の環境が、久坂をして独立不羈の精神を与えたのではないでしょうか。
頑迷ではなかった久坂玄瑞の性格
安政3年(1856年)人づてに吉田松陰の思想を知った玄瑞は、外国使節を斬るべしという過激な攘夷論をしたためて松陰に書き送ります。しかし、松陰はもはやそういう時代ではないと玄瑞の論に厳しい評価を与えます。
これに対して玄瑞は一歩も引かず、なおも強固な外国排撃論を繰り返すのですが、松陰から確かに玄瑞の論には名分がある、是非とも実行して欲しいと言われると、おのれの経験の無さから出た論であることを悟り、以降は松陰の思想をを受け容れるよう努めることになります。
ここに、玄瑞の先進的で過激な論を主張するものの、おのれの過ちに気づくとそれに固執することなく考えを改めるという柔軟な性格が見てとれます。
松下村塾門下で玄瑞と共に四天王と呼ばれた高杉晋作が外から分かる頑固者で陽頑、吉田稔麿が内に秘めた頑固者で陰頑と呼ばれたのに対し、玄瑞にはそいう頑迷な部分がなかったと言えます。
他人に誤りを指摘された時は素直に従う
安政4年(1857年)のことでした。
玄瑞の才能を高く買った松陰は、自分の妹の文と結婚させようとします。
しかし玄瑞は、松下村塾塾生の指導的立場にあった中谷正亮に文の容姿が好みでないと、この縁談に乗り気でないことを打ち明けます。
すると中谷は、君は妻をその容色で選ぶのかと叱責します。玄瑞はこの言葉に反駁したものの、その日のうちに結婚を承諾したといいます。
まだ十代の若者ですから女性の好みを言うのも無理はないと思うのですが、いったんは反論しても、おのが非を認めて文と結婚したあたりは、玄瑞の侠気のある性格を表していると思います。
自分の意見は述べるが決まったことには従う
文久2年(1863年)、京都での攘夷運動の周旋を終え、江戸に入った玄瑞は高杉晋作らと合流します。
そこで玄瑞が知ったのは高杉らの外国人に対する襲撃案でした。
以前は玄瑞自身も唱えていた過激な攘夷論でしたが、松陰に諭され、無謀の挙を繰り返すよりも藩内の論をひとつにまとめ、藩単位による堂々とした攘夷を行うべしとの考えに至っていた玄瑞は、果然これに反対します。
しかし高杉はこれに耳を貸さず、一触即発になった時、井上聞多が仲間内で争っているとは何事かと喝を入れ、結局、高杉の主張通り襲撃を行うことになったのです。
論議が決着すると、強硬に反対をしていた玄瑞はそれ以上抵抗することなく、襲撃の一味に加わりました。
この企ては、長州藩世子・毛利定広や三条実美反対にあって頓挫するのですが、このエピソードから、どんなに反対であっても一度決したならば逆らわないという玄瑞の性格を窺い知ることができます。