江戸時代の食事のメインは大量の米?
江戸時代になるとそれまで朝夕の一日2回だった食事が3回になります。
江戸時代の人々は一体どんなものを食べていたのでしょうか。
白米食が招いた「江戸わずらい」
江戸庶民の食事はその3食とも一汁一菜、もしくは二菜が基本で、わずかな副菜で大量の白米を食べるというのが普通でした。
そのことは「江戸わずらい」と呼ばれる病気を招きます。
「江戸わずらい」というのはつまり「脚気」のことです。精米することで雑穀や米ぬかには含まれていたビタミンB1が不足することでおこります。
心不全や末しょう神経障害をきたし、下肢にむくみやしびれがでます。
参勤交代で1年おきに江戸に住んだ武士たちは、体面を守るため白米を食べ、その結果脚気にかかる人が多かったとか。
しかし、江戸を離れて地方の雑穀混じりの食事をとるとなおったそうで、このことから「江戸わずらい」と呼ばれました。
このエピソードから、当時江戸では白米が、地方では雑穀米が主に食べられていたことがわかります。
白米以外の主食を
江戸中期以降に入ると新たな主食として蕎麦が流行します。
その背景には蕎麦が脚気を予防するビタミンB1を多く含んでいたことがあります。
とある調査によると、そばとうどんの両方を出すお店において、東京では「そば うどん」とそばが先に書かれているのに対し、大阪では「うどん そば」と書いてあるそうです。
いわれてみると、東はそば、西はうどんというイメージが確かにある気がします。
その背景には脚気を予防するという実益があったんですね。

By: Ryosuke Sekido
脚気が死因となった人々
こうしたことで、江戸時代には脚気が死因となった人がたくさんいました。
たとえば、14代将軍・徳川家茂やその正室で孝明天皇の妹である和宮も死因は脚気衝心とされています。
他にも13代将軍・家定も暗殺説もありますが、脚気が悪化したためともいわれています。
このように、徳川将軍の死因として最も多かったのは脚気だったということを篠田達明氏は『徳川将軍家十五代のカルテ』で指摘しています。
江戸城では10代家治のころからおいしいことを理由に白米が常食とされていたということで、参勤交代で江戸に上がってきている地方武士さえ体面を保つために白米を食べるくらいなので、将軍はなおのこと白米を食べざるを得ない状況があったのかもしれませんね。
その後も脚気は国家問題に
経験的にも漢方医学でも蕎麦を食べることが脚気を予防することが分かっていたにもかかわらず、明治になって脚気は国家的な問題となります。
明治期の脚気による死亡者数は年間で最少でも6500人、最大では15085人にものぼったそうです。
1873年に出された徴兵令では当時1日5合食べられていた白米を、兵士になれば1日6合食べれることが目玉とされたくらいなので、当時の人たちの白米に対するあこがれはただごとじゃありません。しかしながら5合でも食べすぎですよね。
海軍では早くに米食が脚気の原因と気付き、麦飯を始めましたが、陸軍は脚気の原因を細菌によるものと考えていたので、大正2年まで白米1日6合を続けたそうです。
そのため脚気は帝国軍人の職業病となっていました。
1910年に鈴木梅太郎が「白米の食品としての価値並に動物の脚気様疾病に関する研究」を報告し、ビタミン不足が脚気の原因ということがわかってからも、脚気の患者は減らず、「結核」と並ぶ二大国民病といわれてきたそうです。
ごはんが一番おいしい!
江戸の人々は初物好きで「初物を食べると七五日長生きする」といわれ、大枚をはたいて初物を食べたといわれています。
特に人気があったのはカツオで、カツオが「勝つ男」に通じることからその縁起を担いで歌舞伎役者の中村歌右衛門は初ガツオ1本に3両払ったとか。現在でいえば48万円くらいでしょうか。
そのほかにもシイタケやナシ、ミカンなど江戸の初物好きは野菜や果物にもおよび、促成栽培までして高く売ろうと初物競争が過熱したので、幕府が初物禁止令を出したくらいでした。
しかしながら、おいしいおかずにはおいしいご飯が欠かせないもの。
まっしろのごはんは江戸の人たちにとって一番のごちそうだったにちがいありません。