久坂玄瑞と文の夫婦仲は?
高杉晋作とともに「松下村塾の双璧」と呼ばれ、尊王攘夷を掲げる長州藩におけるリーダー的存在だった久坂玄瑞。
そんな玄瑞の妻となったのは師・吉田松陰の妹・文でした。
二人の夫婦仲はどうだったのでしょうか。
玄瑞が望まなかった文との結婚
1857年玄瑞と文は結婚しました。この縁談をもちかけたのは文の兄・松陰です。
松陰は時に厳しい物言いをする人物でしたが、14歳も年の離れた文には優しかったそうです。
多くの維新志士を育て上げた松陰でしたが、その中でも松陰は玄瑞を「防長二国の毛利藩における若者で第一流の人物であり、天下の英才」として最高の評価を与えており、玄瑞ならきっと文を幸せにしてくれるはず!と思ったのでしょう。そうした点でも玄瑞はもっとも松陰の信頼を勝ち得ていたといえます。
しかし、玄瑞はこの縁談を当初了承しませんでした。理由はタイプの顔じゃないから。
玄瑞という人は平均身長が158センチともいわれる当時において180センチ(諸説あり)もあり、恰幅もよく、色白で、さらに美声の持ち主だったと伝えられています。
玄瑞が詩を吟じながら鴨川を歩くと、河畔の店から女性たちがその姿を見ようと顔を出したという話もあります。
一方文は、「色黒で首が太い」とか言われ、決して美人といわれるタイプではありませんでした。
玄随自身も自分の「イケメンぶり」を自負し、結婚するなら美人をと思っていたのでしょうか。
しかしながら、これを先輩である中谷正亮にたしなめられ、結婚を承諾するにいたったのだそうです。
ちなみに松陰は玄瑞に話をもちかける以前に桂小五郎(木戸孝允)にも文との結婚を持ちかけています。これに対して「考えておきます」と、物腰柔らかな桂らしい返答で断られてしまいました。
二人の夫婦仲
「しぶしぶ」結婚した玄瑞でしたが、二人の夫婦仲は良好だったといわれています。
もともと人づきあいがよく、塾生たちからも慕われる人柄の玄瑞でしたから、妻としたからには大切にしようと心に決めていたのかもしれません。
玄瑞は14歳で母を亡くし、翌年兄と父を立て続けに失って孤児の身の上だったので、結婚後は文と松陰の生家である杉家で暮らしました。
しかし、結婚後玄瑞は松陰の勧めで京都や江戸を遊学したり、松陰の死後は長州藩のリーダーとして奔走したりと大忙しの日々。
二人の結婚生活は7年間に及びましたが、実際はほとんど萩におらずともに過ごしたのは数か月に満たなかったため、2人の間に子どもができることはありませんでした。
二人をつないだ手紙のやりとり
しかしながら、二人の夫婦仲を伝えるものとして、玄瑞が文に送った21通の手紙が残っています。
この手紙の中には、和歌を勉強し、勤王の志士の妻として教養と威厳をもって生きてほしいという玄随の願いとともに、八・一八政変の時の無念さや、攘夷決行の際の心境などが素直に記されていて、玄瑞の文に対する信頼と愛情が感じられます。
これに対し、文も着物を縫って送ったり、玄随の死後には墓参りを欠かさずに行い、命日には必ず参拝するなど、近くにいないながらも妻としての勤めを果たしました。
文は玄瑞の死後もこの手紙を大事に持っていて、のちに文の再婚相手となる楫取素彦が「涙袖帖」としてこれらをまとめ、3巻の巻物としました。現在はそのうちの1巻(6通の手紙)のみが現存しています。
玄瑞は文の初恋の相手?
玄瑞をそのイケメンぶりから「お地蔵さん」とあだ名した文。玄瑞が塾にいると文は顔を赤らめ、目を見て話をすることができなかったなんて逸話もあります。
松下村塾で掃除や食事の世話をしていた文が、イケメンでしかも塾生たちからの信頼も厚く、尊敬する兄からも認められていた玄瑞に恋するのは当然の流れといえるでしょう。松陰が玄瑞を文の結婚相手に選んだのにはこうした理由もあったのかもしれません。
松陰の見事なサポートで玄瑞と結婚することができた文は、その結婚生活の長さ以上の幸せを感じていたことと思います。
玄瑞の死により22歳の若さで未亡人となった文が、周囲からの再婚の勧めを断り続けた理由はそこにあるように感じるのです。