久坂玄瑞が浮気!? その相手とは
尊王攘夷運動のリーダーとして長州の志士たちを率いた久坂玄瑞。師である吉田松陰の妹・文を妻としていた玄瑞でしたが、二人の間には子どもはできませんでした。
しかし、玄瑞の死から数カ月が経ったころ、玄瑞の息子と思われる子どもが京都で生まれたのです。名は秀次郎、玄瑞の幼名・秀三郎からつけられたそうです。
しかもその成長した姿は生前の玄瑞によく似ていたことから、現在私たちが玄瑞の姿として知るあの肖像画のモデルとなっています。
玄瑞の息子・秀次郎を生んだ浮気相手とはどんな人物だったのでしょうか?
浮気相手は?
現在玄瑞の浮気相手として有力視されているのが、辰路です。辰路は京都の花街・島原の桔梗屋の芸妓で玄瑞が京都に出奔していた際になじみになったといわれています。
彼女のいた桔梗屋というのは大変に繁盛しており、その規模は島原の筆頭置屋である輪違屋に次ぎ、太夫3人、天神12人、芸子14人を抱えていたそうです。
玄瑞は暗殺の危険から逃れて潜伏し、密議を行う場所として島原の角屋を利用していたようで、現在もその場所には石碑が建てられています。
角屋というのは置屋から芸妓や娼妓を呼んで接待させる料亭のことですので、二人の出会いはこうした場所だったのかもしれません。
こうした一方でもう一人、玄瑞の息子を生んだ女性として名前が挙がっているのが佐々木ひろです。ひろは伏見西柳屋町の女性で、玄瑞が1863年の年末年始を伏見界隈で過ごしていることから、その時期に知り合ったとみられています。
当初はひろのほうが有力視されていたそうですが、彼女に関してまったく情報がなく、もはや存在自体あやしくなってきたことから、なじみとして知られていた辰路の名前があがってきたのだそうです。
しかしながら、秀次郎がうまれた同時期に辰路は小八郎を生んでいるともいわれていて、現在も秀次郎の母親は不明のままです。
秀次郎を後継ぎへ
秀次郎のことが萩にいる妻・文に知れたのは明治2年(1869)のことです。秀次郎が5歳になるころでした。
井筒タツ、つまり辰路が藩に玄瑞の遺児として届け出たことがきっかけでした。自分のもとにいるよりも父親である玄瑞の久坂家に入れたほうが幸せになれるだろうという考えからだったのでしょう。
松陰門下の品川弥二郎の証言や、なによりその顔が生前の久坂にそっくりだったことから、藩も久坂の遺児に違いないと判断します。
妻・文の思いは?
この時代、花街でなじみの芸妓もいないという人も珍しく、容姿端麗でしかも長州藩のリーダー的存在で潤沢な藩費をもつ玄瑞を花街の芸妓たちが放っておくはずもありません。
文もある程度そこは勤王の志士の妻として覚悟していたところではなかったでしょうか。
しかし、秀次郎が玄瑞の遺児と藩が認めたことで、文は楫取家から養子に迎えていた久米次郎を楫取家に返すことになってしまいます。
久米次郎は玄瑞が自刃する8カ月前に養子として迎えられ、その時のことを玄瑞は「久米次郎事、まいまいまいり候や、はやはやはや成長よかしと祈り居候事に候」と記していますし、1か月前には「久米次郎昨日参り、大いに喜び、昨も一緒に寝候」と玄瑞が久米次郎をかわいがっている様子がわかります。
文にとっては夫・玄瑞との最後の楽しい思い出だったでしょうし、養子とはいえ、子どもを含めた3人で過ごした時間はかけがえのない幸せな時間だったはずです。
玄瑞に浮気相手がいたこと以上に久米次郎を奪われたことのほうが文にとっては悲しい出来事だったのではないでしょうか。