秀吉の朝鮮出兵で見せた加藤清正の大活躍っぷりとは
島国である日本は、古代より大陸との交流はありましたが、交戦となるとそれほどの回数はありませんでした。
しかし、日本の統一を果たした豊臣秀吉の目は大陸に向いていたのです。
まずは朝鮮半島、そして明までも征服しようという野望を彼は持ちました。
現代の私たちからすると正直なところ「無理でしょう!」と言うところですが、秀吉は本気だったのです。
そして、秀吉は諸大名を朝鮮に出兵させました。ここで起きるのが、「文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役」です。
ここに出兵したのは、日本を代表する錚々たる大名たちでしたが、その中で加藤清正は、ここで活躍を見せるのです。
最終的には朝鮮半島の人々に「鬼上官」と呼ばれ恐れられるようになった清正の活躍とはどんなものだったのか、見ていきたいと思います!
朝鮮出兵における清正の活躍とは
文禄の役(1592年・文禄元年)
1592年に始まった第一次朝鮮出兵にあたる文禄の役において、清正は二番隊の大将となり、鍋島直茂(なべしまなおしげ)、相良頼房(さがらよりふさ)などを配下に置き出陣をしました。
4月17日に釜山(プサン)に上陸すると、慶州(キョンジュ)城を攻略し快進撃を続け、続けざまに首都:漢城(ソウル)も陥落させます。
5月18日、朝鮮軍が反撃に転じた臨津江(りんしんこう・イムジンガン)の戦いでは、和平交渉が決裂したため戦闘に突入します。
この時、朝鮮軍が清正軍の前哨隊に攻撃を仕掛けてきますが、清正は本隊を率いて駆け付け、相手をほぼ全滅させました。
この後、日本軍は八道国割という各大名が各方面に進攻・平定する作戦に転じ、清正は咸鏡道(ハムギョンド)方面に進攻します。
そこで勃発した海汀倉(かいていそう)の戦いでは、朝鮮軍を大いに破り、李氏朝鮮の第14代国王:宣祖の長男であった臨海君(りんかいくん)と第6子:順和君(じゅんわくん)を捕虜としました。
清正はそのまま群を北へ進め、ついには国境を越え、満州のオランカイへ侵攻します。日本の威を示すという狙いもありました。
その後は明と朝鮮との和平交渉に入りますが、小西行長(こにしゆきなが)と対立し、結局は秀吉の命で謹慎させられることとなってしまいました。
慶長の役(1597年・慶長2年)
明・朝鮮との和平交渉は結局決裂し、再び朝鮮半島での戦いが始まりました。
清正は右軍の先鋒となり(左軍は小西行長)、全羅道(チョルラド)を攻めます。道都の全州(チョンジュ)を占領し、ここで彼は蔚山倭城(ウルサンわじょう)の縄張りを行います。
文禄の役の際にも、西生浦倭城(ソセンポわじょう)を建設していました。
しかし、大ピンチが訪れます。57,000の敵軍が、蔚山倭城を包囲したのです。清正の手勢はわずかで、兵糧や水に乏しく城も未完成のままでした。
落城寸前まで追い込まれますが、清正はこの状態で10日も耐え抜いたのです。そして、毛利や黒田の援軍が到着し、大軍を撃退することに成功しました。
ただ、今度は秀吉自身が亡くなってしまい、朝鮮出兵はここで幕を閉じることとなったのです。
朝鮮出兵における清正の逸話
清正が朝鮮において虎退治をしたという逸話が有名です。しかし、実はこれは黒田長政とその部下が行ったことがすり替えられてしまっているようです。
また、清正はセロリを朝鮮半島から持ち帰ったとも言われています。
そのため、セロリは「清正人参」とも呼ばれているのです。
まとめ
「鬼上官」と恐れられた清正は、確かに鬼神のごとき戦いぶりを見せていました。
朝鮮出兵では、日本軍の手痛い敗戦も少なくはないはずですが、清正の敗戦というのはあまり見られないように思えます。
そして、しっかり築城の手腕を発揮しているところも、彼らしいですね。