板垣退助暗殺未遂事件 「板垣死すとも~」の名言は脚色!?
土佐藩士で、新政府の政治家として活躍した板垣退助。愛国公党を結成し、民選議員設立建白書を提出し、自由民権運動を展開したことでも有名な彼は、全国を遊説して回っていたころ、岐阜で暴漢に襲われます。この暗殺未遂事件はいったいどうして起こったのでしょうか。
板垣退助暗殺未遂事件
この事件は起こった場所から岐阜事件、岐阜遭難事件、または板垣退助遭難事件と言われます。
これは1881年に自由党を結成し、党首となった板垣が1882年、遊説旅行のために東京を出発し、たどり着いた岐阜の地で4月6日に暴漢に襲われた事件です。
そこで板垣は、かの有名な「板垣死すとも自由は死せず」という言葉を述べたと言われています。
犯人が板垣を襲ったわけ
この事件で板垣を襲った犯人は、相原尚褧(あいはらなおぶみ)という愛知県で小学校教師をしていた人物でした。
相原は政治運動には特段関心はなかったのですが、東京日日新聞の保守主義に傾倒していたと言われています。
保守主義とは、古くからの習慣、制度、考え方などを尊重し、急激な改革に反対するという思想であり、そのため板垣らが結成した自由党を敵視していたそうです。
そんな折、板垣が遊説にでるということを知った相原は板垣を殺害することを決意します。そして1882年4月6日、「将来の賊」と叫びながら、用意していた短刀を振りかざして板垣を襲撃したということです。
襲撃された板垣の傷の程度
まず、犯人の相原は板垣の胸を狙い、左胸を刺しました。柔術の心得のあった板垣は相原の腹部に肘をあてて相手をひるませますが、再び相原は板垣に襲い掛かりました。周りにいた人間がもみ合う二人を取り押さえ、板垣は近くの民家に避難させられます。
その後の診察の結果、左胸と右胸に1か所ずつ、両手に2か所ずつ、さらに左ほほに1か所の傷を負っているとされましたが、命に別状はなかったとされています。
「板垣死すとも~」のセリフから、この襲撃事件で板垣は死んだと勘違いされている人も多いと思いますが、板垣はこの事件からさらに約40年の月日を過ごしています。
犯人のその後
襲撃犯である相原は、その場で取り押さえられ岐阜警察署に身柄を拘束されて、6月26日から岐阜重罪裁判所で裁判を受けることになりました。そしてその裁判で、無期懲役の判決を受けました。しかし、1889年、大日本帝国憲法の発布のための恩赦で釈放されました。
釈放後は北海道の殖民事業に携わるため北海道に向かいますが、その道中の遠州灘で行方不明となったと言われています。自殺または海への転落しとされていますが、板垣襲撃の黒幕に殺されたとも言われています。
「板垣死すとも、自由は死せず」というセリフの謎
有名な「板垣死すとも、自由は死せず」というセリフ。この言葉は襲撃された時、板垣本人が叫んだと言われていますが本当にそうなのでしょうか。実際突然襲われたとしたら、このようなセリフが言えるのでしょうか。これには諸説あり、板垣自身は後に「あっと思うばかりで声も出なかった」とも書いています。
後の報知新聞の取材によると、この言葉は、板垣の側におり犯人の相原を取り押さえた内藤魯一が、事件の時に自分が言ったセリフを後に板垣が言ったものだとしたらしいのです。
他の説としては、板垣本人がよく似ている別の言葉(「板垣は死スルトモ自由ハ亡ヒス」、「吾死スルトモ自由は死セン」等)を叫んだという説もあり、また、板垣の郷里である土佐弁で叫んだとも、「痛い、医者を呼んでくれ」と言ったとも言われています。