井上馨 襲撃事件 受けた傷は瀕死の重傷レベルだった!
内務大臣や外務大臣と明治政府の主要な役を担った井上馨は、まだ江戸幕府があったころ刺客に襲われて重傷を負っています。
その事件の経緯や犯人などについてみていこうと思います。
井上馨襲撃の経緯と原因
井上馨は江戸の藩の中でも力のある長州藩に生まれました。江戸幕府は長州藩の力を削ぐために長州藩を処分しようと二度にわたって長州藩に兵を向けました。
これを長州征討といいます。この第一回目である、第一次長州征討では、井上馨は「武備恭順」を主張しました。
この武備恭順とは見かけだけの服従で、いつか再起をはかるために武力を備えておくことです。それは幕府に完全に恭順した俗論派からすると危険因子として映りました。そのため井上馨は襲われてしまったのです。
井上馨を襲った犯人とは
井上馨を襲った犯人は俗論党の者だと言われています。俗論党は幕府に完全に恭順の意を示し、謝罪をしていました。
しかし、井上馨(当時の名前を聞多)率いる正義派は幕府を倒そうと狙っていました。
その二派の藩内での対決は頂点を迎え、俗論党は正義派のトップの井上馨を襲うというクーデターを起こしたのです。
俗論党の過激派は児玉愛次郎(七十郎)、中井栄次郎、周布藤吉の3人に、井上馨を殺せと命を下しました。
瀕死のけがを負った井上馨
3人の刺客に襲われた井上馨は背中、後頭部、顔面、下腹部、胸部を刺されて瀕死の重傷を負いました。しかし、芸妓にもらった鏡を懐に入れていたため急所をはずしたこと、暗闇の中畑に転がり落ちたことによってさらなる追撃を逃れたことによって一命をとりとめました。
重傷を負いながらも井上は畑から這い上がり、農家にたどり着き、自宅に搬送されました。しかし、その時あまりにも深い傷を負っていたため、井上は兄に介錯を求めました。ですが、井上の母が井上を抱きかかえ、「斬るなら、この母もろともお斬り」と泣き叫んだので、兄に対して介錯を思いとどまらせたといいます。
その後50針も縫う4時間にも及ぶ手術を受け、3か月後にはほとんどの傷がふさがり、室内を歩けるようになるまでに回復したそうです。一時は死をも覚悟した傷を負ったにしては驚異の回復力と言えるでしょう。
井上馨を襲った犯人のその後
井上馨を襲った犯人のうちの一人である児玉愛次郎は後に井上に謝罪し、その際井上に襲撃した時に使用した刀を記念として贈ったといいます。自分を襲った刀を貰って井上は喜んだのでしょうか?現代人にはいささか理解しがたい行動ですね。
この児玉愛次郎は維新後は宮内省で書記官兼、皇后宮亮などを務め、昭和5年に91歳で永眠しました。
中井栄次郎は井上と対立した俗論党の権力者である椋梨藤太の次男でした。彼は襲撃後、高杉晋作が反乱を起こして藩内が討幕派に傾くと、父の椋梨とともに処刑されました。
周布政之助は井上馨と同じく正義派で第一次長州征討に際しても事態の収束に奔走しましたが、自殺に追い込まれています。その息子である藤吉は井上を襲う暗殺団に入りますが、第二次長州征討で戦死しています。