早稲田大学を設立した大隈重信は爆弾襲撃事件にあっていた!?
大隈重信は佐賀藩士の長男として生まれました。新政府では参議兼大蔵卿となりました。
また、板垣退助とともに憲政党を作り、日本初の政党内閣を成立させたこと、そして現・早稲田大学を設立したことでも有名です。
不平等条約改正のために動いていた大隈
大隈重信の外交手腕を買った伊藤博文は、大隈を外務大臣に任命しました。次の内閣である黒田清隆内閣でも大隈は外務大臣に留任されました。
大隈は不平等条約改正のためにあえて外国人判事を導入しようという条約案を提出しました。
しかし、その日本の法律を司るものに外国人を就任させるということは当時の人々には受け入れられませんでした。その中でも「アジア各国の欧米からの独立、及びアジアの連携による欧米への対抗」を掲げる玄洋社には大隈の考え方は受け入れがたいものでした。
爆弾を投げつけられる怪我を負う
そのため玄洋社の一員であった来島恒喜は、日本が強い権力を持つ国になってほしいとの考えを持ち、1889年、外務省からの帰り道についていた大隈の乗る馬車に爆弾を投げつけました。
これを受けて大隈は死には至らなかったものの、右足切断という重傷を負いました。大隈の右足切断の手術はドイツ人医師で日本のお雇い外国人であるベルツらによって行われました。
その右足は標本にされて後に大隈が設立した早稲田大学に保管され、現在ではお寺に収められているそうです。
襲撃後の犯人
襲撃事件の犯人である来島は、自身が投げつけた爆弾が破裂すると同時に持っていた短刀で喉をついて自害しました。逆に襲われた大隈は、この襲撃事件後は外務大臣の職を辞し、大隈が主張した条約改正案も破棄されました。事件後すぐに死んでしまった来島にはそのことは知る由もありませんが、彼の思いがある意味遂げられたのです。
大隈は後に、犯人について「犯人に対しては恨んではいない。いやしくも外務大臣である自分に爆撃をして世論を変えようとした勇気は蛮勇であろうと感心する。
若者は天下を丸呑みにしようとする元気がないとだめだ」というような旨の評価を下しています。もともと大隈は、世論とは多くの人が意見をぶつけ合ってできるものという考えをもっていました。なので爆撃という形はかなり乱暴ではあるものの、自分の意見を持って国を思う来島のことは評価したのでしょう。