苦渋の決断 福島正則にとっての大坂の陣とは
豊臣秀吉とは血縁関係もあり、子飼いの武将の代表ともいえる福島正則ですが、 関ヶ原の戦いで東軍について以来、徳川家を中心とした政治体制に従っていきました。
豊臣恩顧の武将の筆頭ともいえる福島正則は、大坂の陣の際どのような行動をとったのでしょうか。
見ていきましょう。
関ヶ原の戦い以降の福島正則
関ヶ原の戦いで東軍一の武功を挙げたとされた正則は、尾張清州20万石から安芸広島・備後鞆、合計49万8300石の大幅加増となり入封しました。
入封後は、領内を巡ったり、検地をしたりして正確な石高を調べたり、巨大な亀居城の築城を始めたりして足場を固めていきました。
また、幕府からの諸城修築の要請にも参加し、忠誠を示していました。
しかし、豊臣家との繋がりは切れてはおらず、豊臣秀頼が病に倒れた際には大坂城へ見舞いに訪れたり、また家康が上洛し、秀頼へ臣下の礼を取るように要求した際には、他の豊臣家恩顧の大名と淀殿を説得して会見を実現させています。
時代の流れを察して、一大名としてでも「豊臣家」を存続させようと奔走していたとされています。
大坂の陣の開戦前の情勢
家康と秀頼の会見も無事に済んだかにみえましたが、 家康は着々と「豊臣家」を潰す準備をしていました。
そして、1614年方広寺鐘銘事件と呼ばれる京都方広寺の鐘銘に徳川家康を呪う鐘銘文を作成したという事件が発生します。
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この事件以降、豊臣家と幕府側の対立は決定的となっていき、水面下で双方とも戦の準備を始めていきました。
この頃には、加藤清正(1611年没)、浅野長政(1611年没)、池田輝政(1613年没)など他の豊臣家恩顧の大名はほとんどが亡くなっており、 正則も1612年に病を理由に隠居を願い出ていましたが、これは幕府に認められませんでした。
また、豊臣家側からは大坂の陣の際に加勢を求められていましたが、これを拒否します。
ただ、豊臣家側が兵糧のために大坂の蔵屋敷にあった蔵米8万石を接収した際には、黙認したとされています。
豊臣家側につくのか、幕府に忠誠を誓い恩のある豊臣家を打つのか、正則にとっては苦渋の決断だったと思われます。
大坂の陣への参戦は認められず…
大坂の陣がいよいよ始まるという時、正則は江戸にいたとされています。
正則は関ヶ原の戦いでは東軍につきましたが、それは仲の悪かった石田三成を倒すためにすぎず、もともとは豊臣家恩顧のものであったために、いつ豊臣方へ寝返るか幕府に危険視されたためでした。
そのため、冬の陣・夏の陣共に従軍さえ認められず、留守居役とされました。 (嫡男福島忠勝は、兵を率いて幕府軍に加わっています。)
幕府としては、正則を豊臣家へつかせるチャンスも口実も与えたくなかったのでしょう。
そしてこの戦いの後、幕府からは豊臣家恩顧の大名として、ますます福島家に風当たりが強くなっていくのです。