追放後の足利義昭の生活 最後まで手放さなかった将軍のプライド
織田信長によって、追放されてしまった足利義昭ですが、実は京都からの追放後も足利義昭は室町幕府の将軍で有り続けたのです。
一体どういう事なのでしょうか。
京都追放後の足利義昭の生活について迫ります。
各地を転々としながらも帰京を狙い続ける
京都を追放された足利義昭は、三好義継の治める河内国若江城へ逃れました。
活動拠点も何もかもを奪われた義昭ですが、実はこの時彼の征夷大将軍としての身分は剥奪されていませんでした。
そもそも官位の任官も剥奪も朝廷しかできませんから、当然と言えば当然です。
ですから、義昭は追放された身でありながらも征夷大将軍としての権限を持ったまま、京都復帰と政権掌握への野望を燃やし続けたのです。
まず、義昭は若江城から毛利輝元に書簡を送って支援を依頼します。輝元は安国寺恵瓊を派遣し信長サイドの羽柴秀吉と交渉にあたらせました。
結果、信長は義昭の帰洛に同意しますが、信長方から人質を出すようにとの条件のおかげで交渉は決裂してしまいます。
その後、義昭は全国の大名に信長と敵対するよう呼びかけながら、自身は毛利輝元の元に身を寄せます。上洛の時同様不屈の闘志で打倒信長の為に活動を続けたのです。
信長の死後は秀吉の庇護下に
時は流れ天正10年(1582年)6月2日、足利義昭にとって宿敵とも言える織田信長が本能寺の変で亡くなります。その後の政権交代劇で身を寄せていた毛利氏が豊臣秀吉と和解すると彼は今度は豊臣秀吉に近寄ります。
豊臣秀吉は足利義昭の帰洛を許可します。しかし、頼りにしていた毛利氏も秀吉に従ってしまった以上、軍事力を持たない義昭が天下の政治をとるのは不可能でした。ここから、足利義昭は豊臣秀吉の政権下、彼に仕える事になります。
その後、義昭は親しい仲だった薩摩の島津氏と豊臣氏の戦いを極力避ける努力をし、九州征伐後は両者の講和の中継ぎをしました。
結果、豊臣秀吉の信頼を得て、足利義昭は秀吉から一万石を賜ります。この時にそれまで保持し続けた将軍の位をやっと朝廷に返していますが、その代わりに准三后の称号をもらっています。
さらに文禄元年(1592年)秀吉が朝鮮出兵を断行すると、秀吉に従って肥前名護屋に赴きました。
出立に際して三千五百名の兵を引き連れた彼はとても機嫌もよく、凛々しく見えたといいます。信長に京都を追われて以来の久しぶりの晴れ舞台だったのでしょう。
しかし、これは義昭の最後の晴れ姿にもなりました。慶長2年(1597年)8月28日、義昭は体にできた腫れ物が悪化して大坂において死去しました。
足利将軍家の最後の将軍、61歳の波乱万丈の人生でした。
最後まで諦める事のない将軍のハングリー精神
足利将軍家に生まれながらも幼くして出家、父と兄の死によって将軍候補にと足利義昭の人生は正に波乱万丈です。
逆にそういった前半生だったからでしょうか、信長に追放されても挫けないハングリー精神はすごい物だと思います。
しかし、そんな彼も晩年は秀吉の御伽衆の一人に加わって、太閤秀吉の良い話相手だったようです。
将軍職を手放さず、高いプライドを持ち続けた義昭ですが、晩年は穏やかに楽しく過ごせたのかもしれませんね。