織田信長が足利義昭を追放した理由は2人の描く世界観の違いが原因だった!?
違った目論見を持ちつつも上洛をしなければならないという利害の一致から足利義昭を擁立して上洛を果たした織田信長。
2人の見据えるものが違う事もあり、二人の蜜月は長くは続きませんでした。
今回は足利義昭の追放について、見ていきましょう。
わが父と呼ぶ 信長と義昭の蜜月
永禄11年(1568年)9月、足利義昭は織田信長と浅井長政の軍に警護されながら上洛を開始しました。
途中、抵抗する勢力もありましたがそれを退けて、足利義晴が幕府を構えていた桑実寺に、さらに進軍して無事京都に到着します。
信長の軍を恐れた三好三人衆らは京都に見切りをつけて逃げ出してしまい、9月30日には病気を患っていた14代将軍足利義栄も死去してしまいます。
その為、足利義昭はようやく朝廷から将軍宣旨を受けて室町幕府15代将軍に就任します。あっと言う間の出来事でしたが、義昭は自分をここまで連れてきてくれた信長に深く感謝しました。信長に「室町殿御父」という称号を与え、本当の父のように厚く敬ったのです。
信長の専横に腹を立て挙兵
しかし、幕府再興を悲願としていた足利義昭と新しい武力による天下統一を狙っていた織田信長とでは最初から目指す場所が違っていました。
信長の専横が次第に目立つようになり、彼は義昭に諸大名へ令を出す際や書状を宛てる際には自分を通してからにするようにと命令しています。それに腹を立てた義昭は諸大名へ密使を送って信長討伐令を出しました。ここから信長と義昭の対立は徐々に深まっていきます。
元亀3年(1572年)信長が義昭への意見書を提出するとそれは決定的になり、義昭は挙兵しました。一時は信長の方が苦境に立たされるものの、反信長の武田信玄の死や義昭を支え続けた細川藤孝らが彼を見限った事もあり、形成は逆転します。
信長は幕臣や義昭の支持者が住居する上京全域を焼き討ちにより焦土化し、ついに義昭の住む烏丸中御門を包囲しました。さらに信長はふたたび朝廷に働きかけて、勅命による講和が成立しました。
しかし、納得がいかない義昭は講和を破棄し、槇島城(山城国の守護所)に逃れて挙兵しますが、結局は信長に敵わず、家臣にうながされてしぶしぶ降伏しました。
室町幕府滅亡へ
信長は他の有力戦国大名の手前、足利将軍家を追放したという悪名を避けるため、義昭の息子である義尋を足利将軍家の後継者にする約束で自身の手元に置きました。
これは義昭との話合いの結果行われたと言います。その上で義昭を京都から追放し、本来足利将軍家の持っていた山城、丹波、近江、若狭などの御料所を自分の物にしました。
その後、朝倉家や浅井家が滅んで信長に敵対できる武将がいなくなると、信長の天下は間違いのない物になり、ここが室町幕府の滅亡であると一般的には言われています。
まとめ
足利義昭からすれば父とも呼んだ信長の専横はとんでもない裏切り行為だったでしょう。
しかし、悲しい事に彼は最初から利用されただけだったのです。
信長の足利義昭追放により室町幕府という古い体制は崩れ、新しい時代を迎えます。
ですが、不屈の将軍、足利義昭は諦める事はありませんでした。