本能寺の変を起こしたことで知られる、明智光秀。
彼は本能寺の変の直前まで四国の覇者である長宗我部元親と書状をやりとりしていました。
この手紙は何のためにやりとりされていたのでしょう?
また、本能寺の変との関係はあるのでしょうか?
迫ってみます。
長宗我部元親
四国の覇者として有名である彼は、1538年から1599年にかけて生きました。
幼少時は色白で大人しく、「姫若子」と称されるほどでした。
しかし初陣で勇猛さをみせ、武将として名を上げます。1560年に家督を相続し、土佐の諸豪を討滅させ、さらに1571年には国司である一条氏を追い、土佐を統一させます。
勢いに乗ってか、阿波、讃岐、伊予を攻めて1585年には四国を平定しました。
しかし、豊臣秀吉の四国征伐にあい、結局は土佐一国を安堵され、土佐だけを治めることになりました。
最愛の息子・信親を戸次川の戦いで亡くして荒れた性格となり、家中を混乱させたまま亡くなりました。
四国を巡って
長宗我部元親と明智光秀の関係は交渉役です。
厳密には光秀の重臣である斎藤利三が交渉を行っていました。この利三は長宗我部元親の正室(名前は不明)の異父兄にあたりましたので、親戚筋を頼っての交渉です。
当時、信長は長宗我部に対して「四国は斬り取り自由にして良い(勝手にして良い)」とし、つまりは四国は長宗我部元親が支配した場所を彼の所有と認めると約束していました。
認める変わりに、織田に何かあった時は味方するように要請していました。
しかし、四国を統一した長宗我部元親を危険視した信長は、交渉役を光秀から秀吉に交代させます。
秀吉は光秀の交渉時とは打って変わって「土佐と阿波(四国の半分の領土)のみ」の支配を認めることとしました。
これに長宗我部元親は激怒しましたので、前任である光秀と親戚関係にある斉藤利三は相当なストレスを抱えていたと思われます。
新たな手紙の発見
2014年6月23日、岡山市の林原美術館と、共同研究を行っていた岡山県立美術館は「長宗我部元親が斉藤利三にあてた新たな書状が見つかった」と発表しました。
その内容は、四国の支配(土佐と阿波のみ)に恭順する旨が書かれていました。
この手紙の日付は、5月21日となっています。ところが本能寺の変が起きたのは当時の日付に変換すると、6月2日です。
5月21日に出した手紙が、果たして6月2日までに信長へと届くのでしょうか?
交通事情などを考慮し、更に手紙は斉藤利三に宛てられていますので、斉藤利三から明智光秀に渡り、それが織田信長に伝わるのはほぼ不可能だと思われます。
さらに明智光秀はこのころ、兵を率いて出立していますよね。
重臣である斉藤利三も同行していたと思われますので、この手紙は本能寺の変の前には届いていなかったのではないかと考えられます。
本能寺の変との関連は
無関係ではないでしょう。ですが、四国一国のためだけに謀反を起こすとも考え難いですし、正式な手紙が届いていなかっただけで斉藤利三あたりには、長宗我部元親の意図は読めていたのではないでしょうか?
恭順するよう、説得していたのかも知れませんしね。
そうなると、本能寺の変の原因以前に、なぜ四国支配に関して恭順したのか…長宗我部元親の理由から考える必要があるかも知れません。