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大量粛清! 安政の大獄で死罪となった人数は100人以上!

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安政5年(1858)から安政6年(1859)にかけ、大老・井伊直弼は自らの政策に反対する人たちに弾圧を加えるため、大量処罰に臨みました。

その数100人以上。

その中で最も重い刑が死罪です。

死罪とされた人々はどういった理由で処罰されたのでしょうか。また、死罪とならなかった人との違いとは何だったのでしょうか。

死罪となった人たち

死罪となったのは8名です。

吉田松陰

長州藩士。松下村塾を主宰し、多くの維新志士を輩出した人物。教育者である一方、老中間部詮勝暗殺を計画したり、ペリーの黒船でアメリカへの密航を計るなど時に過激な行動をとることも少なくありませんでした。斬罪。享年30。

橋本佐内

越前藩士。将軍継嗣問題では藩主・松平春嶽とともに一橋慶喜を擁立し、幕政の改革を訴えました。斬罪。享年26。

頼三樹三郎

儒学者・頼山陽の三男で自身も儒学者。尊王攘夷運動が高まると、一橋慶喜擁立を求め朝廷に働きかけ、これがきっかけで幕府に危険人物とされていました。斬罪。享年34。

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安島帯刀

水戸藩家老。将軍継嗣問題で一橋派として暗躍しました。さらに井伊直弼暗殺計画や幕府の威信を傷つけることとなった戊午の密勅に関与したと疑われ幕府に囚われました。徳川御三家の家老が幕府に囚われるなど前代未聞という要請や無罪の判決にも関わらず、井伊直弼自ら切腹を命じることとなりました。切腹。享年48。

鵜飼吉左衛門

水戸藩士。将軍継嗣問題では一橋派として慶喜擁立を図り、戊午の密勅降下に関与したことで捕縛されました。斬罪。享年62。

鵜飼幸吉

水戸藩士。吉左衛門の次男。戊午の密勅を父に代わって江戸の水戸藩邸に届けました。獄門。享年31。

茅根伊予之介

水戸藩士。将軍継嗣問題、戊午の密勅、日米修好通商条約調印問題、安政の大獄と尽く直弼と対立しました。斬罪。享年35。

飯泉喜内

将軍継嗣問題では一橋派に属し、ペリー来航に際しては『祈りの一言』を著し幕政を批判しました。その後ロシア人と接触したとして取り調べをうけ、自宅から多くの志士との手紙が出てきたことから処罰されることとなりました。斬罪。享年54。

生死を分けたものとは?

死罪となった8名の共通点は吉田松陰を除き、みな「一橋派」として重要な役割を果たしていた点でしょう。

しかし、一橋派の中心人物である前水戸藩主・徳川斉昭や、候補者である慶喜、斉昭とともに一橋派を主導した福井藩主・松平春嶽は死罪となっていないのです。

そうした点を踏まえ、死罪となった人物と死罪とならなかった、隠居・謹慎(斉昭は永蟄居)となった人物の違いは、身分の違いであると私は考えています。

隠居・謹慎となったのは一橋家当主、水戸藩主、尾張藩主、福井藩主、宇和島藩主、土佐藩主、佐倉藩主、前掛川藩主、上田藩主、川成島藩主と藩主クラスの人たちばかりです。

一橋派の一掃を掲げ弾圧を行った直弼でしたが、「彦根の赤鬼」と恐れられた直弼もさすがに藩主たちを死罪とすることはできなかったのではないでしょうか。大老といえども直弼自身も一彦根「藩主」ですから。

しかしながら今後「戊午の密勅」のような「謀略」を起こさせず、直弼の政策の妨げとならないように斉昭ら一橋派の藩主たちを牽制するために、その実行者たちの死罪を断行したものと考えられるのです。

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