吉田松陰を祭神とする松陰神社
日本の神社の中には、幕末の志士を祀った神社がいくつもあります。
明治天皇を祀った明治神宮は別格として、明治維新の元勲では、大久保利通を祀った大久保神社、大村益次郎を祀った大村神社、木戸孝允を祀った木戸神社、西郷隆盛を祀った南洲神社、坂本龍馬を祀った龍馬神社など、枚挙にいとまがありません。
吉田松陰を祀った松陰神社も、こうした志士を祀った神社のひとつに数えることができます。
松陰神社は東京と山口の二ヶ所
松陰神社は東京都世田谷区と山口県萩市の二ヶ所にあります。
実在する人物を祀る神社はゆかりの地に一ヶ所ということが多いのですが、吉田松陰の場合は、生誕の地である萩市と墓所のある世田谷区にそれぞれ神社が建立されています。
明治維新の精神的支柱となった松陰を慕う人々が多く、また、伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、松本鼎、岡部富太郎ら多くの門下生が明治政府の重職を担ったことも影響しているのでしょう。
松陰の墓所に建てられた東京の松陰神社
東京の松陰神社は、東京都世田谷区若林にあります。
現在は世田谷区役所や国士舘大学世田谷キャンパスがあるこの地域は、江戸時代には長州藩主毛利大膳大夫の別邸があった場所で、それにちなんで大夫山と呼ばれていた場所です。
安政6年(1859)年10月27日、安政の大獄で刑死した吉田松陰の遺骨は、4年後の文久3(1863)年に松陰門下の高杉晋作、伊藤博文らによってここに改葬されました。
それから20年を経た明治15(1882)年、今は新政府の要職を務めるようになった伊藤博文以下の門下生が、墓のそばに御魂を祀る社を建てたのが東京の松陰神社の創始になります。
この墓所には、同じく安政の大獄で捕らえられた頼三樹三郎、小林良典、横浜の外国公使館襲撃に失敗して自刃した来林良蔵ら、多くの長州藩士の墓もあります。
この神社での吉田松陰の祭神としての名称は吉田寅次郎藤原矩方命。
松下村塾で多くの門弟に学問を教えた吉田松陰にふさわしく、学問の神様として今も崇敬を集めています。
現在の社殿は昭和初期に造営されたものですが、境内の26基の石燈籠と石の鳥居は明治41(1908)年の松陰50年祭に門弟等が寄進したもので、伊藤博文、山縣有朋、桂太郎、乃木希典、井上馨、青木周蔵などの名を見ることができます。
松下村塾の地に建てられた山口の松陰神社
山口の松陰神社は山口県萩市椿東にあります。
ここは、吉田松陰が吉田家に養子として入る前の実家である杉家のあった場所で、松陰の叔父である玉木文之進が開いた松下村塾の地でもあります。
この神社が建立されたのは明治23(1890)年、松陰の実兄である杉民治が杉家の邸内に土蔵造りの祠を建て、松陰の遺品である赤間硯と書簡を御神体として祀ったのが始まりでした。
吉田松陰50年祭を翌年に控えた明治40(1907)年、松陰門下の伊藤博文、野村靖らが中心になって、これを神社にすることを請願します。
この結果、土蔵造りの本殿の前に萩城内の鎮守であった宮崎八幡の拝殿を移築して、今日の松陰神社が創建されます。
その後、昭和30(1955)年に社殿は新築され、土蔵造りの旧社殿は松下村塾の門人を祀る松門神社に改められています。
松門神社に祀られている門人は、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、金子重輔、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎、前原一誠、松浦松洞、玉木彦助、馬島甫仙、野村靖、山田顕義、木戸孝允、寺島忠三郎、時山直八、杉山松助、松本鼎、飯田正伯、増野徳民、尾寺新之丞、阿座上正蔵、渡辺嵩蔵、天野御民、有吉熊次郎、飯田吉次郎、境二郎、河北義次郎、久保断三、国司仙吉、駒井政五郎、諫早生二、井関美清、岡部富太郎、滝弥太郎、妻木寿之進、中谷正亮、弘勝之助、堀潜太郎、正木退蔵、横山幾太、赤禰武人、大谷茂樹、岡部利輔、小野為八、木梨信一、佐々木亀之助、佐々木貞介、福川犀之助、福原又四郎、山根孝仲の52柱です。
また、松陰神社の境内には、松下村塾、松陰の旧宅を改装した吉田松陰歴史館、宝物殿の至誠館などがあり、萩市ではもっとも崇敬を集め、多くの初詣客が参詣する神社となっています。