井伊直弼はどんな人柄だった?
安政7年(1860)3月3日朝9時頃、降りしきる雪の中、一丁の駕籠が江戸城・桜田門に差しかかろうとしたとき、突如潜んでいた18人の刺客がこの行列を襲撃しました。幕末動乱の時代の口火を切った「桜田門外の変」です。暗殺されたのは当時幕府の最高責任者であった大老・井伊直弼。
孝明天皇の勅許なしに独断で開国に踏み切り、反対派を徹底的に弾圧した敵役として描かれることが多い直弼ですが、実際はどんな人物だったのでしょうか。
「埋木舎」での送った青春時代
文化12年(1815)、直弼は現在の滋賀県彦根市に生まれました。父は名君として知られていた11代彦根藩主・直中、母は彦根御前ともよばれた才色兼備の側室・お富です。
井伊家といえば、戦国時代「井伊の赤揃え」として恐れられた名家です。しかし、直弼は城の外堀の近くに建つ中級藩士が住む程度の質素な屋敷で青春時代を送っていました。直弼はこの屋敷を「埋木舎(うもれぎのや)」と呼びました。なぜなら直弼は直中の14男。
つまり、井伊家を継いで藩主となる道は生まれた時すでに閉ざされたも同然だったからです。井伊家では嫡子以外は他の大名家の養子となり家を継ぐか、家臣に養われるかが慣例で、その養子先がみつかるまでは、無役のまま過ごすしかありませんでした。他の兄弟たちが養子となっていく中、直弼は一人この「埋木舎」に取り残されていました。
直弼は「埋木舎」での生活について次のように書き記しています。
これ世を厭うにもあらず。はた世を貪るごときかよわき心しおかざせれば、望み願う事もあらず。ただ埋もれ木の籠もり居て、なおすべき業をなさましとおもいて設けしを、名にこそといらへしままを埋木舎のこと葉とぞ(『埋木舎の記』より)
世の中を嫌うわけではないが、もはや出世の望みはない。ただ閉じこもって自分のすべきことに取り組もう。こうして直弼は、武術・学問・芸術など様々なことに取り組みました。特に茶道に熱中した直弼は奥義を極め、茶道の一派を立てるまでになっています。
彦根藩藩主へ
しかし、「埋木舎」で文化人としての生活を送っていた直弼に突如思いがけない転機が訪れることになります。12代藩主・直亮の跡継ぎが亡くなったのです。
先に触れたように、直亮の弟たちは直弼を除き全員がすでに養子となり他家を継いでいました。そのため、後継ぎに一人残されていた直弼が抜擢されることになりました。
直弼は将軍・家慶に藩主着任の挨拶に江戸城に登城した際、感激のあまり駕籠の中で涙を流し、「もはや出世することはあるまいと思っていた身が、今回のように身分が高くなりありがたい限りです。これからはくれぐれも善い政治を行うようにつとめたい」とこの時の気持ちを記しています。
条約調印に対する直弼の考え
ところがその3年後の嘉永6年(1853)、日本を震撼させる出来事が起こりました。ペリー来航です。アメリカへの対応について幕府で行われた評定で徳川家の家臣筆頭として意見を求められた直弼は「今アメリカと戦っても勝ち目はない。しばらく戦争を避け、アメリカと交易をして国力を養い、その後アメリカを打ち払うべきである」と一旦開国することを主張しました。
この背景には直弼の現実主義があります。直弼はアヘン戦争以後の中国の状況を知っており、今後日本が欧米列強と立ち向かっていくためには、鎖国ではなく開国しておくことがよりよいと考えたのです。鎖国を続けるという理想論ではなく、国際状況を考慮した上で現実的な決断を下したとみることができます。
結局、幕府は直弼のこの意見を採用し、開国。安政5年(1858)、直弼は大老に就任し、幕府の最高責任者としてこの難局に立ち向かうことになったのです。
下田に着任したアメリカ総領事・ハリスが通商条約の調印を迫る中、直弼は天皇の勅許を取るべく、奔走します。直弼は「天朝(天皇のこと)へ御伺が済まないうちは、条約調印は相成らない」と考えていました。つまり、「勅許をとらず独断で」調印することを直弼は考えていなかったのです。しかし、幕府の重臣の多くが早期の条約調印を直弼に迫ります。直弼は「なるべく調印を延期するように。やむを得ない場合にのみ調印するように」と言い渡しましたが、その日のうちに日米修好通商条約は締結されてしまいました。
生真面目な性格
直弼はその生真面目な性格ゆえに、条約締結後も、条約勅許を得るため何度も今回の件について説得を行っています。
直弼は、今外国と戦争をしても勝ち目がないこと、今回の条約は一時的なものであり、いずれ国力をつけたのち鎖国に戻すつもりでいることを公家たちに説明しました。
その結果、条約締結の半年後、孝明天皇は「今回の調印のやむを得ない事情も了解」したそうです。しかし、すでに国内に多くの外国人が駐留している中で、再び鎖国することを前提とした天皇の言葉は公表できませんでした。しかも実際は外国勢力を打ち払い、鎖国に戻す見通しはまったくたたない状況にあったのです。
直弼はまた、責任感ゆえに融通がきかない側面もあったようで、次のような話が伝えられています。
ある時、直弼の友人で矢田藩主・松平信和が直弼に水戸藩を抜けだした者のなかには必ず暴挙におよぶ者がいるだろうから、ひとまず大老を辞任して、自体が収束するのをまったほうがいい、と勧めた時のこと。
直弼は「国家が危機の淵に立つ今日、自分一人身の安全をはかるわけにはいかない」と述べ、信和の制止を振りきって席を立ち、振り切った着物の袖が裂けてしまったと伝えられています。
さらに信和は、それならばせめて警護の士を増員して、不足の自体に備えるようにと警告しましたが、直弼は「供の数は幕府の規定で定められており、大老自らそれを破ってはしめしがつかない」として供の数を増やそうとはしなかったそうです。
桜田門外の変の5年前、直弼が親しい家臣に送った一通の手紙には、直弼の不安や悩みが切々とつづられていました。
恐ろしさのあまり薄氷を踏む思いである。以前案じていたより難しい事態となり、この先どうなることか心配である。水戸殿に睨まれて、どのような災難が待ち受けているかわかったものではない。天下のためとはいえ心痛の限りである
この書状とともに「極秘」として直弼自筆で自らの戒名が記されていたそうです。直弼は国の政治に関わり始めたころから、その自分の死を予感していたのでしょう。
反対派を弾圧し批判の中暗殺されたという印象が強く、ともすれば「悪役」と捉えられがちな直弼ですが、生真面目に真っ正直に日本の国難に立ち向かい、「善い政治を行うよう努めたい」と記した思いそのままに、最後まで逃げること無く立ち向かったその姿勢はもっと評価されていいのではないでしょうか。