吉田松陰は黒船で密航しようとしていた!
松下村塾を主宰し、多くの維新志士を育てた吉田松陰。そんな教育者としての顔とは別にとってもクレイジーな人物だったといわれています。
松陰は自分のことを「二十一回猛士」と名乗り、21回激しい行いをすることを目標としていたとか。この「21」という数字は回数を表しているのではなく、松陰の名乗った「杉」と「吉田」という名字を分解するとどちらも「21」になることからつけられたとされています。
そんな松陰のもっともクレイジーな行動が、ペリー率いる黒船での密航です。
松陰はなぜ密航しようとしたのでしょうか。
黒船に乗り込む
松陰が初めて密航を計ったのは、プチャーチン率いるロシア軍艦でした。しかしこの計画は、プチャーチンが予定を繰り上げて出航したために失敗してしまいます。
そして1854年にペリー率いる黒船に乗り込んだのです。この計画も簡単ではなく、黒船まで船を漕いでくれる船頭が見つからず、結局は松陰と行動を共にした金子重輔とともに自分たちで漕いでいかなければなりませんでした。
旗艦・ポーハタン号に乗り込んだ二人は、船員に渡航を願い出ましたが、当然拒否されます。
鎖国政策を敷いていた江戸時代の日本において、海外渡航は国禁。もし二人を受け入れたことが幕府に知れれば、交渉を進めていた日米和親条約の締結にもさし障る可能性がありました。
計画に失敗した松陰は幕府に自首、老中・阿部正弘の計らいで死罪をまぬがれた二人は故郷・長州で幽囚されることになったのです。
密航の理由
松陰は密航の前に、黒船の船員に自分たちの密航の意思をつづった手紙を渡しています。
そこには「自分たちの学識は乏しく、西洋の武器の使用に熟練しておらず、兵法・軍律を議論することもできないということ」、「書物により欧米の習慣や教育を多少知っていて、長年五大陸を周遊したいと考えていたこと」が記されていました。
「私」より「公」
上に記した密航の理由からは、松陰は国禁を顧みず、自分の好奇心を満たすために密航を決意したように見えます。
しかし、松陰という人物を考えると決してそれだけではないように思われるでのです。
松陰は幼いころから叔父・玉木文之進のスパルタ教育を受けていました。文之進はとても厳しい人物だったといわれており、ある時松陰が勉強中にハエが頬に止まり、それが痒いので掻いたところ、いきなり文之進が松陰を折檻したというエピソードがあります。
折檻の理由は「「聖賢の本は、民を治める事を学ぶのであって公である。頬を掻くという行為は私である。公を行っているときに私を行ってはならない」というもの。
自分の学問は「公」のためにしているのだ、という考えを持っていた松陰が自分の好奇心を満たすためだけに密航を計画したとは考えられないのではないでしょうか。
また、松陰は儒学の一派・陽明学を好んでいたそうです。陽明学者としては幕臣でありながら民のため乱を起こした大塩平八郎も有名です。
その陽明学の教えの一つに「知行合一」というのがあります。これは「知」=知っているということと「行」=行動するということは一つでなければならない、つまり「こうすべきとわかっているならそれを行動にうつさなければならない」というものです。
大塩平八郎の行動もこれに沿ったものと考えており、松陰にも同じ思いがあったものと思われます。
日本が欧米の植民地とならないためにも、「密航」して見聞を広め、日本を強い国にしなければならない、そんな思いがあったのではないでしょうか。
まさかアメリカの船に乗り込むのに「私たちはアメリカに留学し、アメリカの技術を盗み、アメリカを倒すために密航したいのです」と言うわけにはいかないでしょうからね。