軍神上杉謙信の後継 上杉景勝は無能だった!?
越後の龍とも軍神とも謳われた上杉謙信。
隣国である甲斐信濃の領主である武田信玄と攻防を繰り返し、戦国の群雄割拠時代を彩った英雄的な戦国大名ですね。
しかし、その養子で後継者となった上杉景勝はどんな人物だったのでしょう?謙信のライバル的存在、武田信玄を後継した武田勝頼などは結果として甲斐武田家を滅ぼしてしまったため無能な人物と評価されることもあります。
上杉家の景勝の場合はどうだったのでしょうか。
上杉景勝は無能か有能か - 無能説
まず、最初に彼が無能だったという説について整理してみましょう。
上杉景勝・無能説の根拠1:出身の上田長尾家に対する上杉家中の差別感情
これは景勝本人に直接関係することではないのですが、景勝の実父:長尾政景と、そのまた父である長尾房長は、いかにも典型的な動乱の戦国・群雄割拠時代の武将らしく、情勢によって頻繁に仕える主や味方する側を変えました。
政景は舟遊びの最中に池に落ちて溺死するのですが、その際に暗殺説が囁かれるほど、越後上杉家中にはこの上田長尾氏に対する不信感や一段低く見下す感情が根づいていたと言われます。そういった評判が、その子孫である景勝の評価をも低くしているという見方があります。
上杉景勝・無能説の根拠2:御館の乱の長期化や度重なる移封と領土縮小
もう1つの無能説の根拠は、謙信の跡目相続争いとして起こった『御館の乱』の長期化(終息までほぼ2年かかった)です。またその乱の後で国力が弱まっていたところを織田勢に四方から攻められ、養父:上杉謙信の最盛期には145万石とも比定されるほどだった上杉家の領土も、ほぼ越後1国に狭められてしまいました。このことも景勝の評価が下がった要因でしょう。
更に景勝の生涯に陰を落とした出来事として、関ヶ原の戦いの時に西軍の味方についたことが挙げられます。この行動は関ヶ原で勝利を収めた徳川家の怒りを買い、豊臣政権時代に秀吉から与えられていた会津120万石の地から、減封と領土移転を命じられてしまいます。この転封で上杉家は会津時代と比べてわずか4分の1の石高である、米沢30万石へと移封されたのです。
越後→会津→米沢への相次ぐ移転、そして生涯2度に渡る領土縮小。確かにこれは仕える側から見れば、主人への評価が下がる原因になりますよね。困ったものだと言いたくなる気持ちも、分からなくはありません。
上杉景勝・無能説の根拠3:全てを家老の直江兼続に丸投げ?
3番目の無能説の根拠は、これが一番巷で言われ続けていることだと思いますが、家臣である直江兼続との関係です。
直江兼続は上杉家の有能な家老として名高い人物であり、また景勝が幼少の頃から仕えていた側近中の側近でもありました。兼続は生涯、景勝と上杉家のためにその手腕を振るいます。
しかし、これはもう一方の側面から見ると、主君として上杉景勝はあまりに何もかも家老に任せ過ぎなのでは?という批判が根強く出続ける原因となっているようです。
上杉景勝は無能か有能か - 有能説
では、上杉景勝には有能なところはないのでしょうか?いえ、ちょっと待って下さい。そう簡単には言い切れないのです。
上杉景勝・有能説の根拠1:上杉家の体制を近世的なものに変える体質転換に成功
謙信時代の上杉家臣団は、それぞれが自立性の強い存在である国衆(国人領主)達の力が大きい、中世的な体質を持った軍団でした。謙信急逝後の相続問題が御館の乱と呼ばれる長期的な内乱になってしまったのも、この国衆がそれぞれの思惑で景勝派と対立する景虎派に分裂してしまったために起きたことです。
景勝は御館の乱以後、支城を在番化する方針を打ち立てたり、また国衆の改易などを行って配置転換を断行、次第に上杉家臣団の体質を近世大名家中に相応しいものに変えていきます。こうした行動が成果を実らせたのは、もちろん時代の流れが後押ししてくれた側面もあるとは思いますが、やはり上杉景勝がリーダーシップを取れる人物だったことを示してはいないでしょうか。
また、直江兼続が筆頭家老に立ち、上杉家内で一人大きな権力を掌握していたというのも、言い換えてみれば景勝-兼続からその他家臣団へという、指揮命令系統のトップダウン化に成功したのだと言うこともできるでしょう。
上杉景勝・有能説の根拠2:豊臣秀吉に評価されている
上杉景勝は天正14年(1586年)に時の権力者豊臣秀吉に接見し臣従、秀吉の信任を得ることに成功しました。慶長3年(1598年)には会津120万石に加増転封され、奥州の伊達と関東の徳川、両勢力に対する押さえ役を任されています。
この厚遇は豊臣秀吉が特に直江兼続を高く評価していたためという説もありますが、それだけというのは果たしてどうでしょう?新しい領主として他国に入るわけですし、しかも伊達と徳川の間なら、軍事力も情報収集力も必要な場所なのでは・・?
どんなに家老が名家老でも主君が凡庸だったら、任せることができないポジションだという気がします。
上杉景勝・有能説の根拠3:関ヶ原の後に改易を免れたのは景勝の決断が影響
関ヶ原の戦いは、家康の上洛命令に従わずにいた、会津の上杉家征討の名目での徳川軍出陣がきっかけでした。会津に北上していた家康の留守中に、西で石田三成が挙兵します。
急遽方向転換して西軍討伐へ向かった家康軍に対し、直江兼続は追いかけて背後を突くことを主張しますが、ここで景勝が断固として異を唱えるのです。「謙信公がご存命であれば、そうはすまい」と。普段は兼続の献策は全て受け入れていた景勝でしたが、この時ばかりは追走を許しませんでした。
結果として、関ヶ原では徳川方の東軍が勝利。関ヶ原にこそ西軍として参戦しなかったものの、合戦の間、東北で東軍側の伊達家・最上家と戦っていた上杉家は窮地に立たされるのですが、決戦地に向かう家康軍を後ろから攻撃しなかったことで、減封はされましたが何とか改易を免れました。
もちろん、これは景勝に先見の明があったからそうなったという訳ではなく、景勝が謙信公以来の『義』を重んじたから、という主義的なものではあったでしょう。しかし、優秀な寵臣に対しても、ここぞという時には自分の意見を通せる主君だった訳ですから、その判断力と胆力には目を瞠るものがあると私は感じます。やっぱり、”丸投げ”というのとは少し違うなと思うのですが、いかがでしょうか?
まとめ
さて、上杉景勝の生涯からいくつか大きな事柄をピックアップして、彼が無能だったのか有能だったのかを考察してみました。ここまで読まれた皆様はどのようにお感じになりましたか。
私の個人的な感想としては、とにかく、絶対に自分よりは有能な人だな!と思います。
ひとつには、優秀な部下(直江兼続)を上手く生かせる上司(主君)というのは、優秀でないと務まらないだろうと思うので。もうひとつは、戦国乱世を勝ち抜けるかどうかは、個人の能力だけでは決まらないという思いがあるからです。運というか巡り合わせや、周囲の人との兼ね合いなども重要な要素でしょう。
ですから、無能説で言われている移封や減封も、景勝が能力不足だから起こったことだとは一概に言えない気がします。難しい時代を生きながらも江戸期まで生き長らえ、上杉家存続にも成功したのは、少なくとも無能ではなかった証拠と言えないでしょうか。