源義経とチンギスハンは同一人物!?
源平の争乱で多大な戦功をあげながら兄・頼朝との確執により奥州平泉でその生涯に幕を閉じた、といわれている源義経。
そのあまりに不憫な生涯ゆえに義経は当時から多くの人々の同情を買い「判官贔屓」という言葉を生み出しました。
そして、さらに義経は多くの伝説や物語となり語り継がれることとなったのです。
その伝説の一つに義経は奥州平泉で死んでいない!という義経生存説が存在します。
さらに義経は平泉を脱出した後、大陸に渡りチンギスハーンとなって元王朝を作り上げたというのです。
義経はチンギスハーンなのか? その真相に迫りたいと思います。
東北と義経生存説
義経=チンギスハーン説に触れる前に、義経生存説についてまとめたいと思います。
義経生存説というのは最近になって出てきたような説ではなく、古くは江戸時代から多くの歴史学者によって研究されてきたものでした。
例えば、江戸時代の朱子学者・林羅山や新井白石、現在も「黄門様」として知られる水戸光圀や国語辞書の編者としても知られる金田一京助など実に多くの、しかも教科書にも出てくる「ビッグネーム」が真剣に検証しているのです。
こうした義経生存説はそもそも室町時代の御伽草子『御曹司島渡』が始まりのようです。
『御曹司島渡』では頼朝挙兵以前の青年時代の義経が東北の鬼の大王に会うための道中を描いた物語で、それ自体が義経生存説につながるものではありませんが、こうしたイメージが義経が北に逃れたという説に影響を与えていると考えられています。
これが実際に義経生存説へと変わっていったのは1667年に江戸幕府の巡見使一行が蝦夷地を視察した際にアイヌのオキクルミが「判官殿」と呼ばれていたことを報告したことがきっかけでした。
その後、光圀は調査団を派遣し、蝦夷地に義経や弁慶に関した地名が多いことを報告しています。
こうして義経生存説は物語の枠を抜け出し、現実のものとして真剣に信じられてきたのです。
義経生存説は義経=チンギスハーン説へ
こうした生存説を義経=チンギスハーン説に発展させたのは、ドイツ人医師・シーボルトです。
シーボルトは著書『日本』で義経は大陸に渡りチンギスハーンになったと論じたのです。
この説は当時の人達に深く信じられ、大正時代に小矢部全一郎が『成吉思汗ハ源義經也』を発表したことで大ブームとなりました。
そもそもなぜチンギスハーンなのかというと、二人の不思議な一致が原因です。
チンギスハーンの前半生が謎だらけ
チンギスハーンは「青い狼」ともあだ名され、先祖は狼の化身だったとか、光に包まれた何かだとかいわれるように、その前半生はよくわかっていません。
チンギスハーンはモンゴル草原の遊牧民の出身で文字を使用しないため当然のことではありますが、これにより様々な想像が可能となってしまっているのです。
義経の前半生もよくわからない
義経に関して最も信頼できる史料である『吾妻鏡』には、22歳の時に兄・頼朝を訪ねる以前の記録はなく、私たちがよく知っている弁慶との四条大橋での対決などはフィクションであると考えられています。
義経の活躍時期にチンギスハーンが何をしていたかわからない
先述のように、義経が活躍し記述されたのは頼朝に出会い、源平の騒乱を戦ったほんの8年間しか歴史の表舞台に出てきていないのです。
しかも、義経はその後3年間再び行方不明になり、1183年になって木曽義仲追討の命を受けているので、実際には5年とちょっとということになります。
そして、ちょうどその時期、チンギスハーンには空白の時間があるのです。
義経=チンギスハーン説の先駆者であるシーボルトはさらに
「義経の蝦夷への脱出、さらに引き続いて対岸のアジア大陸への脱出の年は蒙古人の歴史では蒙古遊牧民族の帝国創建という重要な時期にあたっている」
と指摘しているのです。
義経とチンギスハーンの共通点
義経=チンギスハーン説を一大ブームにした小矢部全一郎氏は二人の興味深い共通点を挙げています。
”九”
二人の共通点の一つ目は”九”です。義経は通称を「九郎」といい、名前に”九”が付いていますが、チンギスハーンにも”九”にまつわる自邸があります。
例えば、即位の際に用いた旗は「九旒」ですし、チンギスハーンの別名は「クロー」といい、義経の「九郎」と発音が同じなのです。
日本語と発音が似ている
例えばチンギスハーンの出身「ニロン族」は「日本」と、氏族名「キャト」は「京都」と、軍職名である「タイショー」は「大将」と、王朝名「元」は「源」と似ており、由来が一緒なのではないかというのです。
こうした点はシーボルトも指摘しているところで、城壁の外装を「マク」、白い天幕は「シラ」、さらにチンギスハーンは「チンギス・カン」とも表記されますが、この「カン」は「守(カミ)」と似ているというのです。
身体的な共通点
他にも年齢がほぼ同じであること、身長が高くなく、酒を飲めなかったこと、チンギスハーンの肖像がどこか日本人的な感じがする、なんてことまで挙げています。
義経は幕末の国防を担わされた?
また、この生存説で面白いのは、生存説が蝦夷やアイヌの伝承と結びついていることです。そしてこうした説が盛んに研究され調査された時代というのはロシアの南下に対応するための国防論が高まっていた時代でした。
義経(牛若丸)と弁慶の四条大橋での話などのフィクションが作られ、人々に楽しまれていく中で、義経は悲劇のヒーローとしての側面が強くなっていきます。
容貌さえも美化され、つい最近まで義経は美少年だったといわれていたのです。
この点は新撰組の隊長で結核により若くして亡くなった沖田総司と同じといえるでしょう。
産業革命の波に飲み込まれていく日本を救うべく、義経の子孫が颯爽と現れ、日本を外国の勢力から守ってくれる。
江戸の人々はそんな想像を抱いたのかもしれません。
義経=チンギスハーン説と日本の大陸進出
小矢部氏の指摘は大変おもしろく、つい信じてしまいたくなるものですが、どうやらそのほとんどが反論されて否定されてしまっているようです。
数多くの歴史家からこき下ろされているのを見るとひどく不憫ですが、でも日本史の枠を超えて世界史とつながっていたのではという発想はいつの時代も私たちにロマンを感じさせてくれるものです。
しかしながら、小矢部氏のこの論が戦前の満州開発期に盛んに読まれたことは、日本の大陸進出の理由の一つとされてしまったのではないかと残念な思いがあります。
日本史は大陸の歴史と切り離すことのできないものであることは間違いありませんが、一歩間違えれば大きな悲劇を招くことを、歴史を学び研究する人たちはしっかりと自覚する必要があるのです。