戦国時代の庶民の食事はどんなものだったか?
戦国時代の武士の食事については、割と有名だと思います。
玄米が主食だとか、1日に5合も食したなどなど。
一方で庶民の食事はどうだったのでしょうか。
庶民の定義
まず、庶民の定義が難しいように思いますが。
当時、農民は戦になると足軽として出兵しましたし、半農半武士とでもいう状況でした。
戦国時代は身分の括りがはっきりしておらず、誰でも武士になれる時代でもあったのですね。
斉藤道三などは油売りから美濃を支配するまでになりましたし、豊臣秀吉は農民(足軽)の子だったともされます。
そんな時代でしたから、一口に庶民といっても悩むのですね。
とりあえず、農民と足軽の区別が付きませんから…。
ここではひとまず、職業軍人でない人々を庶民として話を進めていきます。
農民
戦に赴くこともあった農民ですが、普段はどのような食事をしていたのでしょう?
彼らは米は食べず、稗や粟を主食としていました。そのままではなく、雑炊として食べていたようです。
おかずにはヌカを原材料とした自家製の味噌と、周辺で採れる山菜や野草を少々でしょうか。質素な食生活だったようです。
一般に戦国時代の食事は朝8時と昼2時の2回とされていますが、農民には明確な基準は無かったと思われます。
収穫量や合戦の具合、年貢、領主の交代などなど、懸念事項が沢山ありましたので、規則正しい生活とは無縁だったかもしれません。
ですが、基本は朝と昼の2回の食事(雑炊)だったでしょうね。
当時は「大唐米」と呼ばれる赤米が盛んに栽培されていました。
これはぱさぱさしていておいしくはないのですが、収穫量が多くて安価だったためです。庶民が口に出来るのはこの「大唐米」でした。
商人・職人
職業についても区別が難しいのですが、一説によると戦国時代においての商人は、職人と同一だったそうです。
職人が作ったものを片手間に売り、それが商人と呼ばれたようなのですね。
商人、職人の食生活についての資料は見当たりませんので、ほぼ推測になりますが御了承下さい。
ここでは商人、主に堺の有力商人を例に考えてみます。
堺は自治都市で、どの大名にも属していない、例外的な町でした。なかでも「合会衆」と呼ばれる自治体のようなものを運営していた堺の豪商などは、小国の武将などにも匹敵する財力などがあったと推測されます。
ですので、食事に関しても上級武士と同等だったのではないでしょうか?
玄米、味噌汁、副菜といった1日2食の生活が当たり前だったかもしれません。さらに堺は港町として栄えていましたから、普通の人では見ることも出来ない珍しい食糧も手に入れていたかもしれません。
ザビエルは大内義孝にブドウ酒を、フロイスは織田信長に金平糖を贈っていますし、カステラなどの南蛮品も伝わっていました。
ですので、南蛮の何かを手に入れた豪商もいたかもしれません。
職人に関してはどうしても江戸時代のイメージが付きまとってしまうのですが、恐らく農民以上商人以下だったのではないでしょうか。
1日2食、玄米、味噌汁、副菜だったでしょうね。
ですが、肉体労働系の職人は夜食もとっていたかもしれませんし、職業によっては雑炊を主食とした場合もあるでしょう。

By: Jun Seita
足軽(農民)
農民の番外編ともいえる足軽についてです。
彼らは出兵する際には普段とは異なる食事をしました。
短期戦の場合は自分で腰兵糧と呼ばれる弁当のようなものを持参しましたが、内容はにぎり飯と干飯、それから味噌です。
長期戦の場合は一人に対して水一升、米六合、塩が10人に一合、味噌は10人に二合ずつが3~4日分支給されるのが一般的でした。
また戦となると、力を付けるため、普段は貴重な白米や鶏肉などが振舞われましたので、その食事目当てに参戦する足軽などもあったことでしょう。
ですが、いざ戦が始まると食事どころではなくなったので、戦が始まる前までに貴重な食事を済ませる必要がありました。貴重な物が食べられる代わりに命がけだった、ということですね。食は身体の基本、ひいては生命維持の基礎ですから、命がけなのは当然のことだったのでしょうね。