飛鳥時代の人々が着ていた服装の特徴 聖徳太子はどんな物を着ていた?
平安時代の十二単、戦国時代の武士の鎧、現代ならば洋服と、その時代によって服装にも特徴がありますね。
では飛鳥時代(592年~710年の飛鳥に宮・都が置かれていた時代)の貴族や一般人の服装にはどんな特徴があるのでしょうか。
貴族男性の服装
頭には冠をかぶり、笏というものを手に持っていたそうです。笏は始めのうちはいわゆる「カンペ」として用いられていたと言われています。
服装の色は、身分によって着ていい色が決められていました。聖徳太子の時代には、服装の色は冠の色に準じたとされています。
例えば、一番身分の高い「大徳」の冠の色は濃い紫とされているので、服の色も紫だったと思われます。けっこう派手ですね。でも、パッと見ただけで身分の高さが分かるのでよいかもしれません。
天武天皇の時代になると、冠の色は黒で統一され、服装は階位によって8色の色に分けられていたそうです。持統天皇の頃になると色は9色になっていました。この、色で分けられているコートのように長い上着(画像によるとオレンジの部分)は「袍(ほう)」と言われ、腰の部分を紐で結んでいました。
その下のスカートのような、プリーツが入っているものは「褶(ひらみ)」と呼ばれるものです。そして、下にはいわゆるズボンのような「袴(はかま)」をはいていました。袴の下には「褌(ふんどし)」という男性用の下着をはいていました。この褌は一般庶民の男性もはいていたとされています。
貴族女性の服装
身分の高い女性は髪の毛をふんわりとさせて後ろで結び、ゆったりとしている色のついた上着の下に、ストライプ柄(白、黄、緑、青、赤と結構派手な色で構成されています)のスカートのような「裳(も)」とよばれるものをはいていました。手には「翳(さしは)」とよばれる先端の長い団扇の祖先を持っていましたが、次第に扇を持つようになったと言われています。
扇もそうですが、靴(当時は沓と書き、木などでできた堅いものが多かったそうです)も身分の高い者だけが用いたとされています。
また、この頃は、貴族・庶民共に、719年に命令を出されるまで「左前」の着方が主流だったそうです。これは様々な面で真似をしていた中国の服装の影響とされていますが、今では「左前」の着方は、死装束と同じことから忌み嫌われていますが、時代が違えば慣習も違うものなのですね。
庶民の服装の特徴
飛鳥時代の庶民の服装についてはあまり知られていないそうですが、男女の区別はあまり無く、フジ・クズ・コウゾといった天然素材のもので織られた貫頭衣(頭に穴を開けたワンピース状の布に腰を紐で結んだもの)を着ていたとされています。
これは弥生時代からたいして変わっておらず、身分の高い者とは違い、白のシンプルなものを着ていたとされています。