岩倉具視の性格や人物像 明治をつくったその素顔に迫る!
王政復古を実現させ、新政府(明治政府)でも要職について活躍した岩倉具視。下級の公卿から成り上がった彼の人物像をみていきます。
貧乏公卿から政府高官へ
岩倉具視は1825年10月26日、公卿・堀川康親の次男として京都に生まれました。幼名は周丸(かねまる)。朝廷儒学者の伏原宣明に師事し、伏原に「大器の人物」と称され、岩倉家への養子に推薦されたのをきっかけに、1838年、13歳の時に江戸時代の公卿で明治政府の高官となった岩倉具慶(ともやす)の養子となります。
岩倉家は尊攘派(天皇を尊び、外国人を打ち払おうという考え)の公卿でした。また、禄高150石の下級公卿であり、家計は決して裕福ではありませんでした。この貧しい家庭に育ったことが岩倉具視の性格形成の一端を担っています。
1853年、関白鷹司正通に歌道入門し、これによって岩倉は朝廷首脳に発言する権利を得ました。その後、岩倉は薩長藩と手を組み、王政復古を敢行して幕府を一掃しました。そして、岩倉は新政府で日本の近代化に尽力し、大久保利通らと政府専制支配を進め、59歳で病没しました。
その死因は咽頭がんといわれ、ドイツ人医師ベルツにがん告知を受けたと言われています。これが記録に残る限り日本初のがん告知といわれ、亡くなった後はこれまた日本初の国葬が執り行われました。
公卿らしからぬ言動で周囲を驚かした豪傑
そんな岩倉具視の性格とはいったいどのような感じだったのでしょうか。
物怖じせず度胸がすわっている
公家の屋敷には幕府の役人も手を出せないのをいいことに、自身の屋敷を博打の賭場にしており、その胴元からテラ銭をとっていたそうです。
常に人相の悪い人物が出入りしていたそうですが、そんな博徒たちも一目置くほどの度胸と強面なルックスであったといいます。
喧嘩上手
御所会議で討幕の計画が、佐幕派(幕府を支持する立場)から意見を出していた山内容堂の発言で危うくなった時、岩倉は容堂の「幼い天子を利用し…」という発言をしたのを逆手に取り、「天朝様を小僧扱いするとは何事ぞ!」と大喝し、その場の不利な状況を一変させたそうです。
このように時には相手をやり込めるほど口が立ち、断言や直言を憚らなかったので、延臣たちに「岩倉の切り口上」と言われ、嫌われていたそうです。
野心家
関白・鷹司正通の歌道の門に入門したのは、歌道を学ぶためではなく、出世の糸口をつかむものだったそうです。また、和宮降下の後蟄居生活を余儀なくされた時も、西郷隆盛や中岡慎太郎、桂小五郎などと交流し、政界復帰を虎視眈々と狙っていました。
このように当時の公卿らしからぬ言動で敵は多いものの、政府の重要な人物へとなっていったのです。
岩倉具視の盟友
大久保利通
岩倉具視らと大政奉還を機に徳川家を政界から一掃、岩倉使節団の全権大使と副使として欧米諸国を周る。征韓論でも岩倉と意を同じくし、板垣退助や西郷隆盛を政府から去らせ、岩倉とともに政府専制支配を始める。
大原重徳
岩倉と同郷の公卿で、日米修好通商条約の調印に岩倉らとともに反対し、謹慎させられる。
大橋慎三
幕末の志士。岩倉具視に中岡慎太郎、坂本龍馬を紹介し、王政復古運動の初期的条件を作る役割を果たした。
岩倉具視と敵対していた人物
孝明天皇
幕府の存在を認めていた天皇は王政復古派の岩倉と折りが合わず、岩倉が天皇の存在を疎んで毒殺したという説もあります。明治天皇は岩倉の死に際に「オヤジ(孝明天皇)をやったのか」と問うたという逸話もあります。
徳川慶喜
岩倉は王政復古のクーデターを起こし、徳川幕府を倒しました。その幕府のラストエンペラーが徳川慶喜です。岩倉は王政復古後、小御所会議で慶喜の辞官納地(=辞職と領地返上)を決定しました。
西郷隆盛
元は交流があり、意を同じくして討幕運動を盛り立てましたが、征韓論(武力をもって朝鮮を開国しようとする主張)を唱えると、岩倉具視や大久保利通は内治優先を主張し、西郷を政界から遠ざけました。