衝撃! 水戸黄門こと徳川光圀は蛮行 辻斬りを行なっていたらしい!
徳川光圀という人物をご存じでしょうか。もしこの名前にピンとこない方でも、「水戸黄門」という人物の名は聞いたことがあると思います。
映画やドラマでは悪い者を懲らしめて弱者を助ける名君として描かれていますが、そんな彼も辻斬りを行ったという話があります。
辻斬りとは、武士が街中で通行人などを刀で切りつけることですが、正義の味方と思われている彼が、本当にそんな蛮行に及んだのでしょうか。
辻斬り事件の真相
徳川光圀は若い時は「水戸黄門」のイメージが覆るほど、とてもきかん気でヤンチャでした。
徳川綱吉が出した生類憐みの令に抗議するために犬の毛皮を幕府に送り届ける、元服もしない頃から遊郭通いをするなど、数々のヤンチャをしてきたと、光圀伝記集である「西山遺聞」や「桃源遺事」などに書かれています。
そんな振る舞いがうつけ(=愚かな、常識はずれ)者だと言われた所以でしょう。
また運動神経もよく、友達と塀や屋根の上を走り回っても、誰も追いつけなかったと言います。
そんなヤンチャな光圀は刀を持つことを禁止されていました。
しかし、ある時父である頼房が光圀を隅田川に連れていき「わしの後をついてこれるか」と隅田川を泳ぎ切りました。
光圀もそれを何なく泳ぎ切ったので、父は大いに感心し、褒美として光圀に刀を与えました。
その刀で光圀は辻斬りをしてしまったのです。
辻斬りなど数々の蛮行のワケ
母が兄である松平頼重を懐妊した時、父から堕胎するように命じられましたが、母は父に見つからないように頼重を出産しました。
頼重は1632年には水戸藩邸に入ることができたものの、1637年、15歳になるまで頼重は父に接見できず、その間に光圀が水戸藩の嗣子に決定していました。
翌1638年に頼重は時の将軍:徳川家光に御目見しましたが、この時は光圀に次ぐ、次男という扱いを受けました。
こういった事情もあり、光圀は6歳も年上の兄を差し置いて自分が嗣子となったことに複雑な感情を抱き、「グレて」しまったのです。
そんなヤンチャだった少年時代、光圀は街中で通行人に対し、辻斬りを行っています。
その理由は父からもらった刀の試し切りをしたかったということですが、憂さ晴らしも含まれていたのかもしれません。
しかし、光圀は18歳の時に司馬遷の「史記」を読んで感銘を受けて、以降は行いを改めました。(しかし、68歳の時には水戸藩の家老である藤井紋太夫(徳昭)を切り殺していますが…)
辻斬りをした者への処分
辻斬りというものは、歴史ドラマなどでは武士が通行人などを「切り捨て御免!」と言って刀で殺すという風に描かれているものです。
ドラマの中では武士が町人などを殺しても何のお咎めもないようにされていますが、実際にはいくら武士であろうとも理由もなく人を切り捨てることは重罪です。
辻斬りは戦国時代から江戸初期にかけて頻繁に行われました。
その主な目的としては、金品を奪うため、単なる憂さ晴らし、刀の切れ味を試すためなどです。
1602年、江戸幕府は辻斬りを禁止し、犯人を厳罰に処することに決定しました。
しかし、武家の屋敷には奉行所の捜査権は及ばなかったので、光圀も大目付などの目をうまくかいくぐり、処罰を逃れたのでしょう。
いやはやドラマのイメージとは全く異なる彼の一面にはビックリですよね。