3代将軍 徳川家光は実の父と母に疎まれるような性格だった!?
江戸幕府の第3代将軍、徳川家光。
彼は父母との関係がうまくいっていなかったという話や女嫌いだったということが後世の私たちに伝えられています。
そんな家光は性格的に親に疎まれていたのでしょうか。
どんな人物なのかを見ていきましょう。
母との不和の原因諸説
家光の父は第2代将軍の徳川秀忠、母は豊臣秀吉の側室として、秀頼を産んだ淀殿の妹:お江与(お江)との間にできた子です。
お江が家光を嫌った原因としてはこの様な事が囁かれています。
- 家光は生来病弱で吃音もあり、勝気なお江はそれに苛立っていた。
- お江は織田信長の姪であり、家光の乳母・春日局は明智光秀の家臣の娘。そこからあまりお江は春日局に対していい感情を持っていなかったが、家光は自分より春日局によく懐いたので我が子もうとましくなった。
- 病弱でおっとりした性格の家光とは違い、秀忠とお江の次男である国松は人懐こく利発だったので、家光より国松の方が可愛かった。
こういった複雑な感情・状況などが入り混じって、家光は母に疎まれたのでしょう。
父とも不和だった!?
母だけではなく、父の秀忠も家光ではなく国松を溺愛し、後継ぎと決まっていた家光を廃して国松を後継ぎとしようとしています。
これを知った徳川家康が激怒して秀忠を諫めたので、家光が廃されることはありませんでしたが、秀忠は家光に譲位した後も政治的実権は掌握し続けました。
いつまでたっても自分を認めない父に対して、家光がいい感情を持つはずはありません。
また、家光は家康と春日局の子ではないかという噂も流れ(春日局は家光の乳母とされているが、実子は家光誕生よりも七年も前に生まれているので、乳母というのはおかしい)、家光も秀忠を疎んじ、自らが2代将軍と名乗っていたと言います。
家光の女嫌いと大奥
家光は元々男色(男が好き)でした。家光は16歳の時に坂部五右衛門という小姓と関係を持ち、そこから男色にのめりこみました。
さらに青年時代には酒井重澄という小姓と関係を持ち、しばしば夜這いに出かけるほどでした。
そんな家光ですので、御台所の鷹司孝子との関係は険悪で、いつまでたっても後継ぎに恵まれませんでした。
これを心配した春日局は各地から家光が好むような美女を集めました。
そんな美女の中でも元尼(なのでそこまで女を振りかざしていない)で、美少年系の顔立ちをしていた「お万の方」が家光の目にとまり、お万の方のおかげで家光は次第に女色に目覚めます。
その後、側室の1人であったお振の方が長女の千代姫を産み、側室のお楽の方との間には第4代将軍徳川家綱も生まれ後継者にも恵まれました。
まとめ
家光に対して、両親に溺愛された国松は後に徳川忠長と名乗り、駿府などに55万石を領す大名となりますが、家臣を手討ちにした罪で蟄居・改易の後に切腹となっています。
この事件に関しては家光との将軍後継争いがあったからではないかという黒い話も残っています。