小山田信茂が処刑されてしまった理由は決断が出来なかったから!?
関東で一大勢力を誇った武田氏の滅亡は戦国時代の中でも特に時代を揺るがす大事件だったと言えます。
追い詰められる武田氏に従いながら最後の最後に裏切ってしまった小山田信茂。武田氏滅亡後、投降した彼に下されたのは厳しい処罰でした。
何故、彼は処刑されてしまったのでしょうか。今回はその謎についてお話したいと思います。
武田氏の重臣の一人としての前半生
小山田信茂は武田家を支えた旧臣小山田家の当主:小山田信有の次男として生まれています。
祖母は武田信玄の父:武田信虎の妹であり、武田信玄とは従兄弟の関係にあたります。永禄8年(1565年)に父の跡を継いでいた兄の弥三郎信有が病死した為、小山田家の当主になりました。
武田信玄の存命中には今川氏との戦いや三方ヶ原の合戦にも参加しており、武田家の譜代家臣として武田家を支え続けていたようです。
元亀4年(1573年)武田信玄が亡くなり、4男の勝頼が武田家を継ぐと小山田信茂も勝頼に仕えます。
しかし、関東の雄として勢力を誇った武田信玄の時代から状況は大きく変わっていました。織田信長、そして徳川家康。新たな勢力が大きく力を増していたのです。
武田氏を見放した小山田信茂
天正9年(1575年)織田信長と徳川家康の連合軍が甲斐の武田領へと侵攻を始めます。それをチャンスと見た武田氏の長年のライバルである後北条氏も武田領へと攻め込んできました。
この時既に武田氏の重臣で、勝頼の妹婿でもある木曽義昌が武田氏を裏切っています。木曽氏の裏切りはこの戦いに大きな影響を与えました。
戦況が次第に悪くなっていく中、勝頼は側近の勧めにより、信茂の治める岩殿城に逃れる事を決意します。勝頼にとってはここに至ってまで武田氏に仕えてくれ、父の信玄の従兄弟でもある信茂が裏切る事など思ってもみなかったでしょう。
しかし、まさか裏切るまいと思っていたその小山田信茂が勝頼を見放したのです。もう既に戦の勝敗はほぼ決まっていて勝頼に望みはないと判断しての行動でした。
勝頼一行は頼る所を失い、結局は天目山の戦いで勝頼が自刃し、武田氏は滅亡してしまいました。武田氏の滅亡後、小山田信茂は軍を指揮していた織田信忠に投降します。
しかし、主である武田家を裏切った事を責められ、許される事なく処刑されてしまいます。
処刑は織田信忠の本陣である善光寺で行われ、小山田信茂自身は切腹、連座して信茂の母や妻子も処刑されました。8歳の嫡男や3歳の姫君までも処刑される厳しい処分でした。
小山田信茂は処刑されたワケ
しかし、なぜ小山田信茂は処刑されたのでしょう。木曽義昌や穴山梅雪など武田氏を裏切った武将は他にもいます。
彼らもまた、武田氏とは縁戚関係で繋がった重臣でした。理由としては小山田信茂がずっと武田氏に従っておきながら最後の最後で裏切った事が不忠として反感を買ったのだとも言われていますし、同じ小山田氏を名乗った小山田昌行が高遠で激しい抵抗を繰り広げたからとも言われています。
おそらくはその両方の理由でしょう。織田信忠、むしろその背後の織田信長にとって小山田信茂は罪を許して手元に置きたいと思えるような人材ではなかったのではないでしょうか。
まとめ
武田氏に仕えながらもう武田氏に望みがないと見るや裏切った小山田信茂。
もし、彼が武田氏を最後まで支える程の気概を見せていたなら彼の家族に対しての織田軍の処罰も変わったのではないでしょうか。
遅すぎた判断は彼だけでなく、家族の運命も変えてしまったのかもしれません。