北政所はどんな性格だった? 太閤 豊臣秀吉を支えた妻の素顔
木下藤吉郎と呼ばれた若き時代から、豊臣秀吉を支え続けてきた妻:北政所こと、ねね(一説にはおねとも言われる)。
夫の死後は剃髪して尼僧となり、高台院夫人とも呼ばれました。
戦国のファースト・レディとも言える北政所。彼女はいったいどんな性格の女性だったのでしょう?
当時の手紙や記録を中心に、見ていきたいと思います。
宣教師ルイス・フロイスが描く「人格者」北政所像
北政所が生きていた時代、ヨーロッパから日本へキリスト教の宣教に来ていた人物にルイス・フロイスがいます。
彼はポルトガル人であり、ポルトガルの王から頼まれて日本についての詳細な記述を著しました。
フロイスは北政所を相当に高く評価していたようです。「大変な人格者であり、彼女に頼めば解決できないことはない」とまで褒め称え、また「日本の女王」とも呼んでいます。(著書「日本史」より)。
この文章、外国人が自国の王様に宛てて書いたものですから、お世辞が含まれているとは考えにくいのです。
つまり、これはフロイスの正直な感想と捉えて良いのではないでしょうか。
主君:織田信長も賞賛の「イイ女」
秀吉の主君だった織田信長が彼女を絶賛している手紙も現存します。
北政所が安土城に手土産を持参し、秀吉の名代で挨拶に出向いた折に返礼として書かれたものです。その内容は、まず土産物を大変素晴らしいと褒めたのち、
それのみめふり かたちまて いつそやみまいらせ候折ふしよれハ 十の物廿ほともあけ候 藤きちらうれんれんふそくのむね申しのよしこん五たうたんくせ事候か いつかたをあひたつね候とも それさまほとのハ 又二たひかのはげねすみあひもとめかたき
(現代語訳:そなたの容姿、以前見た時より倍ほども女ぶりが上がった。藤吉郎が不足を申すそうだが、言語道断のたわごとだな。どんなに他を探したって、そなたほどの妻は2度とあのハゲネズミには見つけられまい)
と、秀吉をハゲネズミ呼ばわりしてまで、これまた手放しの褒めよう。これは、信長が相当、ねねを高く評価していた印だと思えます。
それにしても、このエピソードはあの信長の思いがけない一面を表していますね。孤高の天才というイメージの信長が、部下の妻にこんなに優しい文章を書くなんて。意外の一言に尽きると思いませんか。
秀吉の出世とともに、政治力・外交力も発揮
夫が木下から羽柴秀吉と名乗りを変え、長浜城主となった時から、ねねは城主夫人として夫不在時に領地の政務にも携わりました。
そのこと自体は大名の正室として珍しいケースではないのですが、やはり夫人達の政治関与にも性格的な向き不向きはあります。
実際に政務代行を行った記録があるねねは、どうやら仕事をさせても有能な女性だったようです。
また、秀吉が天下人として頂点に登りつめ、豊臣秀吉となって関白に任命された時には、ねねも朝廷から「北政所」の尊称を与えられました。
そしてこの後、多忙な秀吉に代わり、朝廷や公家貴族達との社交や交渉事を一手に引き受けています。
このことから見ても、やはり北政所は相当な賢夫人だったと言えるでしょう。
姑とも仲良く、養子や小姓達も愛情深く育て上げる
また北政所は、長浜城時代に迎え入れた秀吉の母・なか(大政所)と、それ以後生涯にわたり仲良く同居し続けたと伝わります。
そして、ついに実子に恵まれることはありませんでしたが、やはり長浜城に移った頃からは何人もの養子を迎え入れ、それぞれ手塩にかけて育てたという話も大変有名です。
それだけでなく夫が将来の部下として小姓として採用した少年達、加藤虎之助(清正)や福島市松(正則)、石田佐吉(三成)などの養育も手がけたと言われます。
ねねは、母性豊かな戦国の肝っ玉母さんでもあったのですね。
秀吉とは人前でも仲良し? 尾張弁で闊達に会話
そんな良妻賢母の見本のような北政所ですが、夫:秀吉と2人の時は、いつまでも気取りも飾りもない、新婚当時のままのざっくばらんな態度を取っていたようです。
朝廷から高い官位を贈られても、2人で話すときは故郷の尾張弁だったそう。
大坂城のベッドルームでも早口の尾張弁で話し、隣室で控えていた侍女が「喧嘩してたらどうしよう?」とやきもきしたとか、伺候した公家が2人の会話を聞いて夫婦喧嘩と勘違いしたなど、愉快なエピソードが伝わっています。
そんなギャップも、夫の心を捉えて放さない、彼女の人間的な魅力のひとつだったのでは?
いつでも心を開いて自分のありのままを受け入れてくれる北政所を、秀吉は深く信頼していたのではと思います。