毛利家は、実に一族の結び付きが深い家です。
毛利元就の後継ぎ以外の息子たちは有力家臣となり、本家を支えました。それは子孫たちへ連綿と受け継がれていくのです。
一時は毛利輝元の嗣子となり、次代の毛利家のプリンスの座を約束されていた毛利秀元。
そんな秀元ですが、関ヶ原の戦いでは戦うことなく終わっています。
この理由はなんと味方にあったというのです。
15,000もの兵を持ちながら、なぜ、彼は動くことができなかったのでしょうか。
関ヶ原の戦いで戦わずに終わった理由
関ヶ原の戦いの時に、毛利秀元はわずか22歳でしたが、西軍の総大将となり、大坂城に入った当主:輝元に代わり、関ヶ原の戦いの毛利軍の総大将となっています。
この際に他に毛利一門としては毛利元就の次男:吉川元春の子である吉川広家(きっかわひろいえ)や三男:小早川隆景の養子となった小早川秀秋などが参戦しています。
総大将であった秀元としては西軍として、戦う意志を持ち布陣をしていたとされていますが、周囲の家臣たちが東軍と内通をしていたのです。
その家臣たちというのはまず、毛利一族であり重臣の吉川広家(きっかわひろいえ)や毛利家の家老であった福原広俊(ふくばらひろとし)です。
2人は密かに東軍であった黒田長政を通して、家康へ内通を図り、毛利軍は戦わないので、毛利家の戦後の所領を安堵して欲しいという密約を取り付けていました。
このため、吉川広家は関ヶ原の戦いでは毛利軍本隊である毛利秀元の前に布陣し、毛利秀元軍の進撃を阻みました。
これによって、秀元は動くことが出来なくなり、終戦を迎えてしまったのです。
吉川広家の邪魔を突破して参戦という道は?
毛利秀元軍はその数15,000とも言われており、これほどの兵がいれば、吉川広家軍(その数:3,000)のさりげない邪魔を突破することができたのではないかと考えてしまいますよね。
しかし、この15,000の兵の中には、福原広敏、宍戸元続(ししどもとつぐ)、益田元祥(ますだもとなが)、熊谷元直(くまがいもとなお)など、毛利家の錚々たる重臣たちがいたのです。
彼らはみな東軍に内通していたので、彼らが動かなければ、総大将といえども秀元はどうしようもなかったのです。
ましてや、秀元はまだ22歳の若者であり、既に輝元の嗣子ではなくなっていましたし、毛利家の「超」重臣たちの前では、強く出ることはできなかったと考えられます。
また、地形的にも問題がありました。秀元は南宮山(なんぐうさん)の頂上に布陣していました。そして、その前に吉川広家の陣がありました。参戦するには山を下らなくてはなりません。道の狭い山道を下るには、15,000の兵では時間がかかったはずです。
それに加えて、南宮山の麓には東軍の押さえの兵たちがいました。彼らと戦えば、ある程度の時間がロスされます。
それから関ヶ原本戦に向かっても、間に合わなかった可能性があるのです。
まとめ
吉川広家や毛利家重臣たちは、毛利家を守るために動かなかったといえます。西軍に加わりつつも、いちばん大事なのはやはり、豊臣家よりも毛利家だったわけです。
直接の主になるわけですから、当然と言えば当然なのかなとも思いました。
ただ、毛利軍が参戦した場合の関ヶ原の戦いも見たかったような気がします。