織田信長がキリスト教を保護したのは政治的な理由からだった!?
派手好きで新し物好きの織田信長が、南蛮渡来のビロードのマントや西洋風の帽子を愛用していたことは知られていますよね。
加えて、信長はキリスト教を弾圧したりはしませんでした。
後の権力者たちはこぞってキリスト教を迫害したというのに、どうして信長はキリスト教を嫌わなかったのでしょうか。
それに、信長は比叡山を焼き討ちしているんです。これはキリスト教に寛容であったことと関係があるのでしょうか。
何か政治的なものが、信長とキリスト教の間にあるような感じがします。検証してみるとしましょう!
信長がキリスト教に寛容だった理由
1569年(永禄12年)、信長はポルトガル人のイエズス会宣教師ルイス・フロイスに大して、畿内での布教を許可しました。
当時、南蛮貿易をするにはまず宣教師たちとの交流、それに伴う布教の許可が必須条件でした。新しい物に目がない信長にとっては、珍しい品々を手に入れるためなら、布教許可などわけないことだったのです。
つまり、「面白いものを持ってきてくれるなら、布教していいよ」というスタンスだったのですね。信長のユニークな見識は、宣教師たちが説明した地球儀や時計、地図などを理解し興味を示したことからわかります。
また、信長はいち早く鉄砲を導入したため、火薬の原料となる硝石が欲しかったのだという説もあります。
比叡山や本願寺勢力への対処
キリスト教に対して寛容な姿勢を取る一方、信長は比叡山に焼き討ちを仕掛けたり本願寺勢力との石山合戦を行ったりと、仏教勢力に対して苛烈な対応をしました。
何故こうも対応が違うのでしょうか。
信長は、当時の僧たちが酒・金・女と私欲にまみれ、政治に介入してきたことをひどく嫌悪しました。
そのため、彼が欲したのは「政教分離」だったのです。徹底的に相手を叩くことによって、政治から切り離そうとしたのでした。
そして、その目論見は成功するのです。
信長自身が改宗しなかったワケ
信長自身は、キリスト教に改宗することはありませんでした。
あれだけ南蛮文化に関心を示していたら、キリシタン大名になっても良さそうな印象がありますが、これはどうしてなのでしょう。
彼は神仏が嫌いだったわけではないのです。実際に熱田神宮に赴いて必勝祈願をしたり、戦勝を祝って神社仏閣に寄進を行ったりしています。
ただ、神仏の権威の元に戦を仕掛けてくる一向一揆勢力が嫌いだっただけのようです。
そのため、彼がキリスト教に改宗する必要はありませんでした。
まとめ
宣教師たちの目論見は、あわよくば信長を改宗させ、ひいては日本国中をキリスト教化して植民地への足掛かりを作ることでした。
しかし、信長の「単に新しい物が大好き」という性格に、彼らの教えは通用しなかったようです。
キリスト教に、精神世界までは踏み込むことを許さずに、自身の勢力基盤の安定に利用した信長は、さすがと言うべきではないでしょうか。