清少納言も紫式部も平安時代中期に活躍した女流作家であり歌人です。
二人は、身の回りの出来事や人物について随筆や日記をいう形で残しています。
これらは当時の女性の暮らしや考え方を知ることができる貴重な書物ですが、その中から、彼女たちの性格をうかがうことはできるのでしょうか?
今回は、書物から読み取れる清少納言と紫式部の性格と二人の似ている面についてまとめました。
『枕草子』から感じとれる清少納言の性格とは?
清少納言は、一条天皇の妃である中宮・定子に仕えていました。
『枕草子』は、清少納言が宮廷で生活している間に興味を持ったことや、日々の生活で感じたことなどを記していった随筆です。
その中に以下のような記載があります。
その日は、雪がたいそう高く積もっていました。そして、いつもより御格子を下ろしていました。
炭びつに火をつけて集まり、色々とお話などしていると定子様が、「清少納言よ、香炉峰の雪はどうなっているでしょうか?」とおっしゃるので、私(清少納言)は御格子を上げさせて、御簾を高くあげたところ、定子様はお笑いになられました。
周りにいた他の女房も「白居易の香炉峰の雪のことは、私たちも知っておりますので、歌などにも詠いますが、御格子を上げるとまでは、全く思いつきませんでした。
やはり、あなたは定子様の女房に、ふさわしい人ですね」と言ってくれました。
この香炉峰とは、中国の詩人白居易の詠んだ歌に出てくる山のことです。
清少納言は、この一文を踏まえ、部屋から見える山を香炉峰に見立て、下りていた御簾を上げさせたというわけです。
この話からは、清少納言の教養の高さだけではなく、認められて嬉しいという無邪気な様子が伝わります。
他にも『枕草子』には、清少納言の負けず嫌いな性格とそれを諌める定子の様子が描かれています。
清少納言は、頭が良く機転が利き、明るく社交的で天真爛漫な性格だったのではないでしょうか。
『紫式部日記』から感じとれる紫式部の性格とは?
清少納言とは対照的に、紫式部は目立つことが嫌いな内向的な性格だったと言われています。
紫式部は、一条天皇の妃である中宮・彰子に仕えていました。その宮仕え中に書いたのが『紫式部日記』です。
紫式部は、『紫式部日記』の中で、本当は屏風に書かれている漢詩が読めるにもかかわらず、わざと「読めない」と言っていると書いています。
当時、漢文は男性が読み書きするものとされおり、女性が漢文を読むことは、自分の才能をひけらかすような、恥ずかしいこととされていました。
そこで、紫式部は、周囲から、反感を持たれないよう気を使っていたようです。
また、『紫式部日記』には、有名な清少納言に対する批判があります。
まずは、同僚の中でも上流の女房達を褒め、「欠点はなるべく書かないようにする」と断りつつも、清少納言への辛口の批判に、最後に自分の考えや行動などを省みて、反省の言葉で締めくくられています。
清少納言への批判は、筆がのってしまったようですが・・・紫式部は、感情をそのまま表に出すことはなく、慎重に行動する人であったと思われます。
清少納言と紫式部、二人の似ている面は?
ふたりに共通するのは、その生い立ちと境遇です。
清少納言の父は著名な歌人、紫式部の父は漢学者でした。そして、二人の父はともに、受領階級と呼ばれる中流貴族でした。
受領階級とは、地方の任国に行って実務をとる、今でいう県知事のような役割をしていました。
清少納言も紫式部も父の転勤に伴い、地方で暮らした経験があります。
ふたりは女性でありながら、父から高い教育を受け、多感な少女時代を地方ですごし、情緒豊かに成長しました。
ですから二人が、高い教養と抱負な知識、優美な立ち振る舞いが求めれた「お姫様」の家庭教師役に選ばれるには当然のことといえます。